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子宮頸がんワクチンについて

私の県で子宮頸がんワクチンの無料接種補助が始まる前のことです。

ある権威のある方がこの恐ろしいワクチンは絶対打ってはいけないと講演をされていた映像を見たことがきっかけで自分なりに調べてみました。
その講演の内容はあまりにも恐ろしい内容だったのでここでは述べませんがたまたまその映像をみてこのワクチンの副作用の情報を集めてみました。

日本で接種が始まってそれほど時間が経ってない頃でしたが諸外国ではそのワクチンを接種して体の痙攣が止まらない、頭痛、吐き気、認知症に似た症状、半寝たきり状態といった症状が出ている若い少女の映像が多くアップされていました。
日本ではどうなのかと心配になり調べてみると、接種開始から間がなかったので件数はそれほどでもありませんでしたがそれでも数件の副作用が報告されていました。
日本としてどの予防接種ワクチンにもある副作用レベルに捉えていた時期でした。

ただ、諸外国の映像を見たあとだったので恐ろしくてとても私は自分の娘に打たせる気になりませんでした。
それから一年も経たずに日本でも被害者の会ができ、お母様たちが訴えている姿がテレビでも取り上げられ、諸外国で起こっていることが日本でも起こり始めたんだ、日本のワクチンもあの外国のワクチンと同じものなのだと、たまたま見た講演の内容はある意味正しかったのだと非常にショックをうけました。

被害者の会ができて、声高に親御さんたちが訴えている一方で、子宮頸がんワクチンの接種は進められ私の県でも無料接種券が届くようになりました。
おそらく多くの県でもそういう流れだったと思います。
瞬時にストップすることをせず、検証を後回しにして被害者の声を握りつぶしての接種推奨でした。
そして、被害はほとんどの方で出ておらず、効果はあるものだし副作用が出たのは心の問題であると一番聞きたくない言葉を聞くことになりました。

被害者は本当に辛い日々を過ごされたと思います。
13歳、14歳で接種して一番青春を謳歌できる時期にとてつもない苦しみに突き落とされて、もしこれが自分の子供だったらと思うとたまらない気持ちになります。
被害者への補償はしっかりおこなっていただきたいと願います。

私は偶然に映像をみて知っていただけです。
見ていなければ良いものだと信じ何のためらいもなく接種させていましたしその結果も定かではありません。

交通事故に遭って、周りも自分も脳脊髄液減少症という病気があることを知らなかったがゆえ、理解されず苦しみ彷徨い・・・。
知らないというより知らせない力も働いており、病院を探してたどり着かなければ治療のスタートに立てない現実もありました。
患者の苦しみは自分でなければ他人の苦しみだから、わかって欲しいけれどわかりようもないし、わからなければ何も言わなければいいのにそんなものはないと断言する方までいます。
仮病、怠け病、心の問題にしてしまう。
それは患者にとって本当に本当に辛いことです。

時に、人は自分に関係がないことは無関心になり、少数の声は制度を変えるには小さすぎて握りつぶされてしまうことがあります。
そういう時、利権を抜きに声無き声を拾い届ける政治家さんがいてくれれば日本はもっともっと良い国になると思います。

子宮頸がんワクチンの被害者救済

子宮頸がんワクチンの接種について、多くの被害者がでてしまっており、その割合が非常に高いことはニュースなどで報道されています。

そして、この度、

「厚労省の審査会は18日、予防接種法に基づく定期接種を受け、救済を申請していた7人について検証。痛みや筋力低下、学習障害などがある6人は、接種との関係が否定できないと判断。医療費の自己負担分と医療手当の支給を決めた。残る1人は判断を保留した。他に救済を申請している人について、厚労省は順次審査を進める

ということを発表しました。

子宮頸がんワクチンについては、被害者がではじめたことを少し耳にし始めた平成13年6月にかーこが記事にしています。


その後平成14年には、被害が拡大したことを受けてかーこが再度記事にしています。

http://akkokako.blog99.fc2.com/blog-entry-378.html

年頃の女の子をもつ母親なら、このニュースは対岸の火事ではないはずです。

実は、平成11年に角川新書からだされた衆議院議員川田龍平先生の著書「医療格差」でも、子宮頸がんワクチンが本当に必要なワクチンなのか・・ということが述べられています。当時、川田龍平先生の事務所に脳脊髄液減少症の患者救済をもとめて出向いたことがあり、会う前に先生の著書を読んでおこうと思いこの本を読んだことがありました。記事にもしています。

当時は、全く子宮頸がんワクチンの被害情報を耳にしたことがなく、私はこの医療格差を読んだときにAIDSで苦しんで同じ思いをさせたくない思いから活動を続けていらっしゃる川田先生の多岐にわたる見識の深さに感銘を受けたことを覚えています。


この本のページをめくり子宮頸がんワクチンについて、なんらこういう問題が起こる前に川田先生はどのように述べていたのか・・ということを再確認すべく読んでみました。
そこには、こう書かれています。

以下引用

ワクチンさえ打てば子宮頸がんにならない」はウソ

政府がワクチン接種を推し進めても、その必要性に疑問を抱いてしまうものがあります。
前出の「子宮頸がん予防ワクチン」がそのひとつです。「人口動態統計2008年」によると、子宮頸がんワクチンにかかる人は年間8500人程度います。原因は「ヒトパロマ・ウイルス」(HPV)によるものです。
 ところが、HPVに感染しても9割の人は自然に体の外に出すことができるのです。では、体外に出せない1割の人ががんにかかるのかといえばそんなことはなく、さらにその9割の人は発病することはありません。
つまり、99%の人は自然治癒も含めて発病しないのです。

それなのに、残り1%の人のためにワクチンを打とうというのが、この子宮頸がん予防ワクチン接種の考え方なのです。

また、アメリカやイギリスなどでは、このワクチンをうってまもなく女児が死亡したという例も複数報告されており、このワクチン自体に疑問を投げかける声も出てきています
子宮頸がん対策は、ワクチンを打ったことに加えて検診を受けなければなりません。ワクチン接種と検診はセットでなければならないということです。子宮を検査してがんの初期症状があることがわかったら、それを取り除けば子宮頸がんは治ります。ここまで徹底すれば、子宮頸がんで亡くなる方の数をさらに減らせるということなのです。

 子宮頸がん予防には、ワクチン接種と検診を受けなければならないことを理解している方はどのくらいいるのでしょう。大方の人はワクチンさえ打てば、子宮頸がんに一生かからないと思っているのではないでしょうか。


ここまで

このあとも、川田先生は日本の子宮頸がんの検診率の低さに警鐘をならし、子宮頸がんは性交渉を通して感染するため、このあたりのことを厚労省が教育をとおしてしようと動いたことがあったが、文科省からストップがかかって実現しなかったこと、HIVについても子供たちにきちんと教えていないことを問題視し、子供たちが自分の身を守れるよう支える「いのちの授業」の推進が必要だという趣旨のことを述べています。

子宮頸がんワクチンに関しては、子宮頸がんになった苦しみを味わわせたくないと立ち上がった女性議員が、ワクチンの接種の必要性を述べていたことも記憶しています。そこには、また川田先生とは違った視点があったのだとも想像できます。

ただ、日本は非常に治験のレベルも高いと思っていたにもかかわらず、こうしてイギリスやアメリカでの死亡例があるようなワクチンの接種にかなり勢いよく踏み切ってしまっている点に不可解なものを感じます。

背後に製薬会社との利権が絡んでいると思えてならないのです。そして、これに関連してもうからない薬の開発に二の足を踏み、患者数の少ない病の患者が薬の開発を切望していることもまた事実としてあるのです。

当時から衆議院議員であった川田先生のような慎重派の意見があり、しかも、ご本人が薬害の被害者であるため、非常に詳しく平成11年の時点で危惧しているこのワクチンの接種をこのように広く推し進めてしまったことに大きな反省を持たなければ、やはり第二第三第四と薬害の問題は繰り返されてしまうのかもしれません。

非常に重い神経の障害を患ってしまった少女たち。もとの体に返して。それが少女の心の叫びであり、家族の叫びなのです。厚労省が補償する少女たちの審査を始めたとのこと・・。

あなたは、この類の症状があるから、薬害の患者です。あなたは、この類の症状はあっても、これにはあてはまらないから、薬害被害者ではないので補償できません。

この対応は長年裁判が続いた水俣病の診断基準、そして、交通事故絡みの脳脊髄液減少症の診断基準、これらと似ているところがある気がします。それは、本人の苦しみとは全く別のまるで他人事の対応という点かもしれません。

もし被害者があなたの娘、もしくは、あなたであったならばどう感じるでしょう。
もとに戻してほしい。それが一番の家族の願いなのです。それができないのならば、国が推し進めた政策の被害者には補償するのは最低限のルールではないかと思います。一日も早い少女たちの回復、そして、補償を実現してほしいと思います。

被害者や遺族に寄り添う心

凶悪な犯罪が後を経ちません。その中でも子供をもつ母として、子供たちが巻き込まれる犯罪は特に心を痛めます。

そして、その犯罪の加害者がまた子供であった事件は記憶から消すことができないほど強烈に私の脳裏に焼き付いています。

少し前になりますが、神戸の連続殺人事件(犯人が未成年)の被害者遺族の父の記者会見をテレビでみて、私は本当に遺族の思いを想像し悲しくなりました。

それは、加害者(当時は未成年)が手記をだしたことに対しての怒りの記者会見でした。

世間を震撼させた事件から何年も経って、やっと最愛の息子さんを亡くした辛い思いをなんとか乗り越えようとしている思いを踏みにじられた、出版は止めて欲しかったということを述べられていました。

私は、憤りを覚えました。加害者の男と、そして出版社に対して、本当に憤りを覚えました。

その後、いろんな人のコメントを読みました。
それは、加害者が書いた手記が、本当に心のうちを述べていて読む価値があるという意見もあれば、私と同じように憤りを覚えるという内容のものもありました。
そして、加害者自身は、自分のやってしまったことに対して、手記でも書かなければ存在すらしてはいけないのではないか・・という内容を述べているとういうことを知り(手記は読んでいないし、読む気もないのでわかりませんが)、自分のために自分が苦しめた人をさらに苦しめることへの罪悪感がないのかと・・怒りを覚えました。

時間薬・・これは、本当にその長い時間をかけて苦しみに少しずつ漆をぬるようにして感じなくさせるものもあると私は思います。
その苦しみの程度にもよりますが、愛するものを殺害された場合には癒える手段が本当にないと思います。しかし、それをやっとの思いで生き抜き、愛する人を弔いながら、生きているという感じではないでしょうか。

許しというのは、難しいと思いました。
私はもし自分がその立場になったら絶対に許せないと思います。
時間薬だけをたより生きていくしかないと思うのが遺族なのかもしれない・・そう感じます。

手記出版。
そこには印税が発生するでしょう。
そして、あれだけ世間を騒がせた事件ですから、買う人もいるでしょう。そこに目をつけて売る出版社もあります。
しかし、私はそういうことが遺族の了解がないままなされていることに憤りを覚えるのです。
辛い人の立場でその人がその苦しい時間をどれほどまでに耐えて生きてきたのかを想像すれば、出版してはいけない本だったように思うのです。

加害者が手記をださなければ存在すらしてはいけないという苦悩を持っていたとしても、被害者遺族がそれを望んでいなければ、やはり出版してはいけないと思うのです。加害者の背負う十字架は重いでしょう。ただ、その重い十字架を背負いながら生きなければいけないと思います。被害者遺族をさらに傷つけてしまうことは絶対にしないということが最低限の守るルールのように思います。

話は変わりますが、交通事故被害。まったく非のない被害者が、どんどんとおいこまれてしまうような状況になることを、脳脊髄液減少症という病を通してしりました。

交通事故加害者は、まず損保会社に丸投げし、被害者との接触を拒否するケースも多々あります。
人間は過ちを犯します。それは誰しもそうなので、法律なり制度なりで処罰や救済策があるのは当然のことかもしれません。
ただ、加害者は被害者の心の痛み、苦痛を負わせてしまったならば、その身体の痛みを想像し、謝罪を誠実に行うことが一番大切なのではないかと思います。
自己弁護や、自己救済がまずありきでは、本当の意味での謝罪とは程遠いものだと思わざるを得ません。

弱い方に寄り添う。辛い方に寄り添う。
この姿勢さえあれば、出版業界は加害者がいくら出版したいと言って出版社に自分の手記を持ち込んだとしても、出版することをしなかったと思います。

この意見には、実際にその手記を読んでから意見をのべたら?という考えをお持ちの人もおられるかもしれませんが、私は一生その本を手にすることはないと思っています。

人生と向き合うチャンスは思いがけず与えられる

関東は長雨が続き、すっかり秋の入口に差し掛かったような気温になりました。朝晩の気温の変化に風邪などひきませんように。
あきちゃん先生と一緒に紹介しています、樋野興夫先生の著書「いい覚悟でいきる」も今日で最後となります。あきちゃん先生の毎回の投稿に、心より感謝もうしあげます。そして、この本を紹介してくださいまして、本当にありがとうございました。

それでは、あきちゃん先生のコメントより紹介します!


脳脊髄液減少症について知識を得て、高橋先生や関係者の方とお知り合いになれたのも、このブログに書き込ませていただいているのも、樋野先生のご著書に出会えたのも…、すべて、私が悪性腫瘍に罹ったればこそです。

さて、本文です。(以下、引用。)

誰にでも。自分の人生と向き合うチャンスは思いがけず与えられます。それががんや病気を通してであればなおのこと、これからの人生に確かな意味を見出すきっかけにしてほしいと思います。たとえ別れという悲哀の使命からもまた学ぶことはあります。そこから何か自分にできることに行き着けば、今度は、世に与える人生を得るチャンスにもにもなるのですから。
(以上)

樋野先生のご著書の末尾をそのままご紹介しました。
ほんとうに、このようになりたいものだと、改めて深く思います。
このあと
「患者さんが笑顔を取り戻すために医療の革新をめざして」というあとがきがあるのですが、わたくしの母の郷里である万座温泉に療養施設を建立したいとのお考えがあるようです。

ぜひ、実現していただければ、群馬県人としても鼻が高いです。

この著書を、少なくても、わたくしの紹介で、あっこ様と高橋先生に読んでいただけたことは、私にとってこの上ない喜びです。
この場をお借りして、厚くお礼を申し上げます。

2015.8.26 (完)


ここまで。

>自分の人生と向き合うチャンスは思いがけず与えられます。それががんや病気を通してであればなおのこと、これからの人生に確かな意味を見出すきっかけにしてほしいと思います。

自分を見つめることの大切さを最後に語っていることは、深い意味があるように思います。たとえ困難なことであろうと、その経験をもって自分を見つめることの意義を樋野先生は語ってくださっているように思います。

自分の人生は唯一無二のものなので、他人と比較することなく、自分なりの意味を見出すことができたならば、そのきっかけが病やガンであったとしても、そのきっかけはチャンスとなるのだとおっしゃっています。このような考えに、わたしも近づきたいと思いました。

どんな経験もチャンスとして、自分を高めることができるといいけれど、人間はそんなに強くないから、経験によって苦しんだり、悲しんだりします。しかし、そういう時はまた、誰かのあたたかさに触れる機会であったりします。泣きたいときは泣いていいのです。 どんな時も大切にすることができると、生きることに深い年輪が刻まれる気がします。そして、優しい瞳の奥にそれは実は見える形でも残るのではないかと感じています。

あきちゃん先生、本当に長い間ありがとうございました。私たちの拙いブログに多くの潤いを与えてくださいました。不定期ブログではありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます!

病床にあってもあなたは役立っている

8月も半ばを過ぎましたね。子供たちも宿題の残りをしあげつつのんびりとできるこの時期を楽しんでいるようです。

それでは、あきちゃん先生のコメントからご紹介します!

さて本題です。いよいよ、あと2節を残すだけとなりました。
(以下、引用)


見舞いに来てくれた人や接してくれる人を、逆に力づけ、元気にして帰すことができるのです。そして、生きる意味や死について考える機会を与えているのだということです。

あなたが、もし、何かをしてもらうだけの立場になったとき、このことを忘れないでください。
まさに、 to do (何をするか)よりもto be(どうあるか)です。これが、いきていること、存在することの意義だと感じずにはいられません。


(以上)

病気、特に長期の療養を要する症状を持つと、言いようのない無力感?のようなものが襲ってくと事が多いと思います。

私も、4度の長期療養休暇で、「おみそ恐怖症」(笑)になったことは、
前述したとおりです。
この時に、樋野先生のお言葉を知っていれば…
病気の私ですら、だれかの励みになることもできるなんて…

考えてみれば、「老い」や「死」を他人に考えさせるほど、相手の「生」にとって役立つことはないですよね。
究極の「リフレーミング」ですよね。


ここまで。



実は、知人からコーチングをうけたことがあります。その方は、人はto be(どうあるか)よりも、to do (何をするか)だと私に告げました。行動が大切だということを教えてくれたんです。そして、その言葉は私に大きく影響を与えたことも事実です。


しかし、樋野先生の本を読んだとき、まったく逆のことが指摘されていたので、その真意を私なりに考えるきっかけになりました。

to be(どうあるか)ということは、人の心に深く関係があり、to do (何をするか)というのは、そこから派生するもののように感じ取りました。つまり、基本がto be(どうあるか)ではないかと思いました。


確かに、病や老は、行動範囲を狭めてしまいます。とくに行動派の人はto do (何をするか)ができなくなることで、存在意義を見失いかけることもあるかもしれません。しかし、実はそういう時こそ、基本である、to be(どうあるか)に立ち返り、しっかりと見つめる大切な時なのかもしれません。

コーチングでいうところの、to do(何をするか)は、社会的な成功にも繋がる視点であり、それを通して自分を成長させることはもちろんできると思います。そして、そういう行動により、思考が深まり、あるべき姿=to be(どうあるか)に深く影響を与え成長できることもあります。

しかしながら、たとえ行動が病などにより制限されたときに、そういう過酷な中でも、to  be(どうあるか)を深く見つめることをし、限られた行動範囲のなかでも、人としてあるべき姿を示すことができるならば、その姿そのものが行動のようなものであり、周りの人への影響も大きいと思うのです。

人は存在するだけて素晴らしいという樋野先生の視点にまったく同感です。そして、to be(どうあるか)ということに磨きをかけることが生きることの大きな意味のような気もしています。

残るところあと一つとなりました。

寂しくはありますが、あきちゃん先生には、お願いをしてtwinsのブログに長らくお付き合い頂きましたことに感謝申し上げます。
プロフィール

Author:あっこ&かーこ
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