スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

明日死ぬとしても、今日花に水をやる

台風の影響で体調を崩した方がいるのではないかと察します。辛い時期ではあると思いますが、どうぞ、皆様お体をお大事にしてください。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!


さて、本題です。(以下、引用)
「もし明日世界が終るとしても、私は今日りんごの木を植えるだろう。」
と言ったのは、ドイツの神学者で牧師のマルティン・ルターです。宗教改革の中心人物として教科書で習ったことがあるでしょう。

この言葉の問われていることを私は、苦難の現実は誰にでも起きるけれど他者に関心を持つ、持ち続けることで貴い贈り物を遺すことができる、と理解しています。

「あなたは、明日死ぬとしても、今日花に水をやりますか?」
その花は、患者さんの周囲の人と同じです。「がんになった自分」だけにせいいっぱいになると、花に水をやる余裕がなくなることもあるでしょう。周りの人が離れていくと感じているのは、きっと自分の風貌が周囲と距離を置いているからです。患者さんの気持ちこそが周囲に向いていないのです。

「花に毎日水をやるように、あなたが周りの人のことを忘れず、慈しむように接するなら、たとえあなたが明日いなくなっても、あなたのことを5年先、10年先に思い出す人がいますよ。あなたのその生き方そのものが周りの人への贈り物になるのですから。」

この患者さんの行為、そして、水を与えられた鉢植えは、たとえこの患者さんがいなくなった後も、かけがえのない思い出とともおに、家族への贈り物として残されるでしょう。そうして、あなたが育てた花を。思いを、必ず誰かが引き継いで育てるはずです。
(以上)

私が入院中に一番気になってたことは、治療そのものに関することではなく、「私が、入院中、もしくは退院後に、『おみそ』として扱われるのではないか。」ということだったことは、前述しました。

幸い、入院中も退院後もそのようなことにはならなかったのですが、
これからは、その恩恵をを周りの人に返す番だと思っています。


ここまで

>あなたは、明日死ぬとしても、今日花に水をやりますか?」
その花は、患者さんの周囲の人と同じです。「がんになった自分」だけにせいいっぱいになると、花に水をやる余裕がなくなることもあるでしょう。周りの人が離れていくと感じているのは、きっと自分の風貌が周囲と距離を置いているからです。患者さんの気持ちこそが周囲に向いていないのです。

確かに、周りが変わったと感じるとき、それは、周りではなく自分が変わった・・ということはよくあることかもしれません。気がつかないことが多いために、他者を責めたりすることもあるかもしれません・・。

良い意味もしくは、悪い意味で自分が変わると、以前は気になっていたことが気にならなくなったり、反対に、以前は気にならなかったことが、気になったり・・ということが起こると思います。

「花が水を欲する」ことは今日も昨日も変わらないのに、花に水をあげる心の余裕がなくなるのは、自分に起こる出来事によって自分が変わってしまう例なのかもしれません。ただ、そんな時でさえ、変わらず咲き誇る一輪の健気な花に癒されたりすることも事実です。

そう考えると、他者や(他の生物)とのつながりを意識し、そこに感謝できるといいなと思います。そして、心の余裕がなくなりそうな時でさえ、花に水をあげることを忘れないような人でありたいし、周囲に笑顔をあたえることができるといいなと思いました。

お互いが苦痛にならない存在となる

雨が続きますね。そろそろ、洗濯物を外に干して、おひさまの光に当てたい!と感じています。
それでは、あきちゃん先生のコメントをご紹介します。

さて、本題です。(以下、引用)

自分のことだけを思い、自分のためだけに行動するよりも、自分が他人から必要とされていると感じたときのほうが、喜びははるかに大きいものです。患者さん同士は相手が必要としていることがより理解しやすいでしょうから、余計なお節介さえ注意すれば、たがいに喜びを分かち合えるでしょう。家族は、患者さんに与えているようでいて、実は喜びを与えられていることを、不安になったときにぜひ思い出してほしいと思います。
そして、スタッフや医療者は、「ありのままを認める」ことでさえも、患者さんと家族を支える喜びになることを感謝したいものです。
(以上)

4回も、長期入院をしたので、様々な患者さんを思い出します。山王病院と違って、公立病院の4人部屋でしたので、お隣やお向かいがどんな方かというのは、精神衛生上、大きな影響を及ぼしました。
Aさん…私と同病で、私が初めての入院の時には、すでに何回か入退院を繰り返されていました。
とても、開放的なかたで、ベッドの間のカーテンンも「好きなだけあけてください」とことらにまかせてくださっただけでなく、これからの治療の流れや、留意点などを教えてくださいました。あとでわかったのですが、看護学校の薬剤師をされている方でした。
Bさん…見るからにインテリで、枕元には、マリア像が置いてあります。(そう。カトリックの信者さんです。)この方は、自分が用があるとき以外は、カーテンを固く閉じて、あちらからは、一切話しかけてきませんでした。おまけに、夜中でもなんでも、お祈りしたいときはかまわず声をあげて(大声ではないですが)唱えていらっしゃいました。「神の教え」を私の都合に関係なく、説いていらっしゃいました。

私が、どちらの方と親しくなったかは、もうおわかりですよね?
Aさんとは、次の入院でも主治医が同じだったので、同じ病棟でした。ただし、2回目は、Aさんは、個室。
ある夜中に、たまたま私が水飲みに起きると、Aさんの部屋が明るく、御家族が集まっていらっしゃいました…すぐに状況は判断できました。

翌朝、奥様がわたくしのところにあいさつに来られ、「主人がまだ元気な時に、ご同室できたことをとても喜んでしました。」とおっしゃっていました。

次の入院から、私は、「Aさんのようにふるまおう。」と考えて、ほかの患者さんと接しました。それは、仕事や家庭でも一緒です。(家庭は、ちょっと自分勝手ですが。笑)
現在、新卒教員の指導をさせていただいておりますが、私の目標は、
新卒君と他の先生方の「触媒になる」ことです。なかなか性能の悪い触媒で、思うように行きませんが…

わたしとAさんは、親戚でもなんでもなく、たまたま2回の入院でご一緒しただけでしたが、Aさんとの出会いは私にとって一生忘れられrないものになりました。
こんなことも、わたしの「脳脊髄液減少症」との出会いに影響しているのかもしれません。

そして、そのことでお知り合いになれた高橋先生は、やはり「与える喜び」を持った方なのだと尊敬しております。




ここまで。

先日テレビに、ALSを患ったヒロさんという方が出ていました。
ALSというのは、体の神経が犯されて自分でできることがどんどんとできなくなる病です。今では、話すこともできず、人工呼吸器をつけて出演されていました。言葉は自分で発することはできなくても、ヒロさんは補助の機械をつかって(おそらく、目で言いたいことを機械に伝えているのだと思いましたが、)コミュニケーションをとっていました。そして、今の心境について、病気になったときは絶望に苦しんだけれど、今では多くの人とつながり活動することに喜びを感じており、こんな日がくるとは思ってもみなかったという趣旨のことをおっしゃっていました。

ヒロさんの周りには、ヒロさんとともにSTOP ALS活動に参加している多くのネットワークができていました。ヒロさんがおっしゃっていたことで印象的なことは、コミュニケーションができるということは生きること、尊厳にも繋がる大切なことだということでした。

「自分が他人から必要とされている、そして他人を必要としている」、これはコミュニケーションの根幹であり、生きるよろこびに繋がるのだと思います。患者であろうが、患者家族であろうが、ギブアンドテイクではなく、どちらも実は「ギブ=与える」ことをしているのだと私は思いました。

ヒロさんをサポートしている方はヒロさんを助けるというより、ヒロさんよりたくさんのものを与えられて、そして、ヒロさんに感謝していました。
「わたしなんかいなければ良い、迷惑ばかりかけて・・」と絶望してしまうほど辛い状況に追い込まれて追い詰められた方はぜひ、そう思わないでほしいと思います。いつも助けられるばかりで・・と自分を責めたりすることは決して必要ないのです。
身体が不自由であり、物理的には多くの人に助けてもらわなければいけなくても、その身体やその苦しみの状況を通して、精神的には多くの人にかけがえのないものを与えているのです。

どんな困難な状況でも、「ありのまま」で「受け入れる」ことができたならば、きっと、どんな立場であっても、喜びを得られるのだと私は確信しました。

いろんな人が世の中にはいます。でも、共通しているのは、人は生まれてそして生きて死んで行くのです。その過程で、多くの人と喜びを分かち合えること、精神性を高めることが生まれてきた一つの意味のように感じています。

言葉を発することができないヒロさんが、画面を通してですが、何も言わなくてもキラキラと輝いて私には見えました。
いつか、この病気の治験が進み、根絶されたら良いのにと思いました。

人生の目的は品性を完成するにあり

いよいよ、最終章のご紹介に入ります。あきちゃん先生から紹介された本は手にとって読むようにしていますが、本当にどれも私に気づきをくれるものばかりです。「与える」ということに関する章のスタートですが、あきちゃん先生が紹介してくださったアドラーのいう共同体感覚が発達すればするほど、「与える」=「喜び」になるようです。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します。

2月以来? ご紹介してきた 順天堂大学教授 樋野興夫先生のご著書「いい覚悟で生きる」(小学館)もいよいよ、第五章(最終章)「与える」に入ります。あと50ページです。
あっこ様、みなさま、お付き合いありがとうございます。

今回のテーマは、樋野先生が前の章でも述べられていますが、あらためて取り上げられている意味を考えたとき、「与える」という要素が含まれることが多気のではないかと考えました。

アドラーいうところの「共同体感覚」です。私は、共同体から必要とされているという意識こそ、その人の生きがいになるわけだし、そういう貢献的な行動の積み重ねが、その人の「品性」になるのだと思います。

さて、本題です。(以下、引用)

「がんになる前の自分の人生が最高だなんて、だれが決めたんですか ? 今の仕事が好きなら、続けられたらいいじゃないですか。自分で決める人生は、病気とは関係ありませんよ。」

困難、苦難は、がんに限らず、だれにでも襲いかかるものです。そのとき、以下に耐えるか。そして、「人のためになる」ことにいかに気持ちを向けられるか。耐えることで品性が生まれ、品性を磨くことによって希望が生まれます。
(以上)

この節は、樋野先生が、私に、私の生きる指針を諭してくださっているのだと感じました。

私は、自分の疾病に対して「耐える」と思ったことは、ほんの初期段階をありませんが、「人のためになる」ことは、常に意識していたように思います。そして今でも…

実際に、どれだけ人の役に立っているかどうか、はなはだ疑わしい部分もありますが、「お役に立ちたい」といつも考えていますし、これからもその考えは続くだろう、いや、続けなければいけないと思っています。



ここまで。

ご自身も病でありながら、他の疾患のことも理解してくださってこうして毎回コメントを頂けることは本当に有り難く感謝申し上げます。このコメントで何かしら生きるヒントを得る人がいるかもしれないので、あきちゃん先生はこちらのブログでも「本当に役にたちたい」とおっしゃる気持ちを形にしていると思います。

実は、自分が役に立ちたいと思っていても相手が望んでいない場合、そのときは身を引くことも大切かな・・と感じたこともあります(笑)。特に私は病の経験者でもないわけですから、色々と難しく感じたことも正直ありました。

ただ、こうしてブログを続けているのは、もしかしたら誰か会ったことも話したこともないけれども、覗いてくださ方の役に立っているかもしれないという気持ちからなのかもしれません。

私は「誰かの笑顔を見たい!」という気持ちを常に持っています。だから、仕事をしていても、関わる人の笑顔を見たいという気持ちが私を動かしているようにも思います。家のことも、家族の笑顔が見たいという気持ちで日々の雑多なこともしているように思います。

今日一日誰かにに笑顔を見せることで幸せになる人がいるのですから、笑顔を忘れずに過ごすことも「人のためになっている」=「与える」意識を手軽に具現化したものだと思います。

笑う門には福きたるですね。
ところで、余談ですが、森三中の大島美幸さんのお子さんが生まれましたね。お名前が笑福(えふ)くんだそうです。二度の流産を経験された大島さん、笑いをみんなに与える裏で、沢山涙も流してたのかもしれません。素敵なご両親のもとに生まれたお二人のお子さんらしい素敵な名前ですね。
「笑」は良いですね!

センス オブ プロモーション

今日は梅雨らしい天気です。気圧の影響もあり、脳脊髄液減少症の患者にとっては、本当に辛い時期だと思います。どうぞ、お身体をご自愛ください。それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します。

さて、本題です。(以下、引用)

「センス・オブ・プロポーション」
悩んだとき、迷った時は、何が大切で何がどうでもいいことかを決めるセンスを磨くことが大切です。(当節リード文)

この言葉は、新渡戸稲造が残した言葉です。

イギリス人やアメリカ人は、何が大きいことで、何が小さいことかを見極める「センス」をもっている。ところが、日本人には、それが欠けていて、重要なことと些細なことを混同して、どうでもいいことの周囲をうろつくばかりで、核心をつかめないという手厳しい評価です。

悩んだとき、迷ったときは、何が大切で、何がどうでもいいことかを自分で決めること、そして、すべきことがわかれば、手順を踏んで本気でやることです。
人にまかせられることはまかす、これも肝に銘じておきたいことです。

ときに、患者さんやスタッフの中には、人間関係についての悩みを吐露する人もいます。また、病気とは関係のないたぐいの悩みを訴えることがあります。
そんなとき、私のアドバイスは決まっています。
「ノミ、シラが肩をちくりと刺すごとし」
センス・オブ・プロポーションのエッセンスをユーモアを持って表していると思います。
(以上)

前述しましたが、「悩みをもつ」ということは、その人が今以上に伸びようと考えている証拠だと考えています。全然、悪いことではありません。
また、小さい悩みごとは、日常生活を大きく発展させます。それが日本人の長所でもあると思います。長所と短所は表裏一体なのです。

問題なのは、悩みがあるかどうかではなく、それを解決する手段や気力をその人が持ち合わせているかなのだと思います。
それで、人間の「大きさ」や「品性」も決まってくると思っています。



ここまで

>イギリス人やアメリカ人は、何が大きいことで、何が小さいことかを見極める「センス」をもっている。ところが、日本人には、それが欠けていて、重要なことと些細なことを混同して、どうでもいいことの周囲をうろつくばかりで、核心をつかめないという手厳しい評価です。

これは、言語にもその理由があるように感じています。英語はまず言いたいことを最初に述べる言語なのに対し、日本語は最後まで何が言いたいのかわからない。誰がどうしたいのか。したくないのか・・。これが曖昧なままで最後までわからない。主語を明示せず結論が最後までわからない言語文化に日本人の曖昧さの一端があるように思います。

ただ、それが悪いことなのか・・というと、私はそうとも思いません。それは、日本人の奥深さにもつながり、思いやりにも繋がっていると思うからです。

曖昧さに関してのみいえば、最初の悩みから派生して、悩み自体も曖昧にし、次から次へと悩みを大きくしたり、重要なことをぼかしてしまうのはとても残念なことのようにも思います。

悩みができたなら、それが自分の力で解決できるものかどうかを判断して、それが他者を変えないと解決できないようなものであるのなら、さっとその悩みを手放す(離れる)ことも必要かもしれません。自分の努力で解決できるものであれば、時間薬という薬をフルに活用しつつ、尽力してみると良いかもしれません。抱え込まず、だれかに話してみて重荷を軽くするのも良いかもです。

あの時あんなに悩んだけど、今となっては懐かしい思い出・・ということも思い返せば沢山あり、そう考えると、今の悩みは永遠には続かないとも言える気がします。過ぎていく時間の中で、かならず薄らいでいくものだとも思うのです。

あきちゃん先生のおっしゃる、「解決する手段や気力をその人が持ち合わせているか」ということが、悩みに限らず、どんな場合でも問題が起こったときの大切な姿勢のように思います。「悩みがないのよ~。幸せ~」・・と屈託なく話す友人を見ていると、自分なりの解決策を持ち合わせていると感じることもあり、それは実は深い経験から身に付けたものであることもよくあることのように思います。

また、『人間の「大きさ」や「品性」』は、苦しい経験をしたような場合には、それを自分の味方につけて、そういう経験がない人よりも早く確立できるのかもしれないと思います。

自己に頼るべし、他人に頼るべからず

梅雨特有の重い雲の立ち込めた空模様ですが、傘の出番は昼間はいらないかもです。
ただ、庭の紫陽花はつかの間の晴れ間の時でさえ、どこか雨を待ちわびているように見えます。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!

さて本題です(以下引用。)

内村鑑三「成功の秘訣」
もとは、星野温泉の三代目に贈ったものですが、商売とは無縁の人にも、学ぶところの多い10か条です。

1 自己に頼るべし、他人に頼るべからず。
2 もとを固うすべし。さらば事業は自ら発展すべし。
3 急ぐべからず。自動車のごときも、なるべく徐行すべし。
4 成功本位の米国主義に倣うべからず。
5 濫費は罪悪なりと知るべし。
6 能く天の命に聞いて行うべし。自らおのが運命をつくらんと欲すべからず。
7 雇い人は兄弟と思うべし。客人は、家族として扱うべし。
8 誠実によりて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。
9 清潔、整頓、堅実を主とすべし。
10 人も全世界を得るとも、その精霊を失わば、なんの益あらんや。人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり。

誠実を説き、物質的充足よりも精神的な充足と、品性の完成を人間としての基本に据える内村の言葉は、時代を経ても新鮮に胸に響きます。まさに、内村が掲げる「妥協のない純粋な自由」を思わずにはいられません。
とくに10は、私が言葉の処方箋で多用する「人生の目的は品性の完成にあり」の出典です。

中国の孟子は、「天爵を修めて人爵これに従う」という言葉を残しています。
人爵とは、人間や社会から与えられる名誉、利益、財産、地位などのことです。品性をつくれば、人爵は、その結果として自然に得られ満たされた人生が実現するでしょう、という教えです。

成功、財産、地位…。人がこしらえた価値観にすぎないものを、生きる目的とするのではなく、自身にとっての品性は何かを静思し、発動することを期待するばかりです。
(以上)

とても、内村鑑三や樋野先生や、ましてや孟子のような達観した考え方には到達できそうもありませんが、それでも、もう仕事もリタイヤして、子どもにも手がかからなくなり、何の借金があるわけでもないので、「成功本位の米国主義」にこだわる必要も全くありませんし、品性を持った生き方を目指して行きたいとは思っていたところです。



ここまで。

キリスト教者であった内村鑑三の言葉の多くに、仏教の教えや自然を敬う神道の教えにも通じる宇宙の普遍的心理があるように思います。
素晴らしい教えは、時空を超え、どんな宗教の枠にも囚われることなく繋がっているものなのだと感じずにはいられません。

孟子の教えの「品性をつくれば、人爵(名誉、利益、財産、地位)は、その結果として自然に得られ満たされた人生が実現するでしょう」には、“強者”の成功哲学が少し見え隠れするのでそうかもしれないけど、違う部分もあるのではないかな・・と思う部分が実はあります。
樋野先生はその部分についても、「成功、財産、地位…。人がこしらえた価値観にすぎない」と説明を加えており、病でそういう物を放棄せざるを得ない方々を察して補足を加えたのではないかと感じます。

品性を高めることが、人生の目的でありその結果として、成功、財産、地位を得られることもあるかもしれませんが、たとえ、そんなものがなくても品性が高められたら、その人生には価値があるのだと私も思います。

逆に言えば、成功、財産、地位を得ていても、仲間を平気で傷つけたり、他者を苦しめた上で富を得たり、自己顕示欲を強める目的でえたような地位のようなものは、品性が伴っていなくて人生の目的を見失ったものだとも思います。

一朝一夕で品性は培われるものではなく、本当にそれが得られるのは長い年月と日々の努力が必要なのではないかと感じます。私も、それを目指していきたいと思います。
プロフィール

あっこ&かーこ

Author:あっこ&かーこ
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。