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寄り添う心は言葉を超える

梅雨が明けると、猛烈な暑さが到来しましたね。エアコンなしでは過ごせない気温になりましたが、冷えすぎて体がだるくなってしまったり食欲が落ちたりしていませんか? 足の冷えには注意しましょうね!それではあきちゃん先生のコメントを紹介します!


さて、本題です。(以下、引用)

がん哲学外来を訪ねてくる人は、言葉によって、会話によって傷ついた経験を持つ人がとても多いように感じます。

まず、患者さんは自身の病気や治療にについての不安を診療に当たった医師に相談できずにいます。
また、家族の何げないひと言が思いやりに欠けた言葉に聞こえたり、逆に、周りの人の気を遣いすぎる言葉に傷ついたりすることもあります。

あなたの身近に苦しむ人がいたら、余計な言葉をかけることよりもまず、寄り添ってみてはいかがでしょう。支えてあげる、などという大上段に構えるのではなく、隣にさりげなく寄り添えばいいのです。

寄り添う心には言葉を超える喜びを互いにもたらす力がきっとある。そのように私は感じているのです。
(以上)

本書は、がん患者を意識して書かれた書籍なのですが、このことは、すべての長期にわたる治療を必要とする患者さんに共通して必要と考えます。

私自身のことを考えると、このことは、かなりの程度実現されているように感じ、周囲の気遣い?に感謝せずには居られません。

自分の人生と他人の人生を混同しないようにすること…簡単なようで案外できていないものなのかもしれないと考えます。



ここまで

言葉というか、話には「間」がとても大切だと感じることがあります。「空(くう)」とも似ていて、その「何もない時間」が実はとても大切だと思うんです。話す内容よりも、何も話さない時間が・・。

言葉が刃になることは以前の記事でも何度か書いたことがあります。何も言わなくてもただそこにいること、貴方のことは思っていますよという気持ちをむけることは言葉よりも多くの安心感を与えることはあると思います。

その立場に立った人でないとどんな言葉が傷つき、どの言葉が傷つかないかは正確にはわかるはずもなく、また感じ方も人によっても違いますし、とても難しいと感じます。

ただ、自分のことを思ってくれる人が居るという安心感は言葉以上に傷を癒し助けるものだとも思います。

樋野先生は、多くの患者さんに接しそれを感じ取って、この章で患者の周囲の人のとるべき姿を示唆してくださったのではないかと思います。

なぜ病気になったのか・・なぜ事故に遭遇してしまったのか・・なぜこんなことが起こったのか・・答えはだせないことが多くて、たとえ答えがあったとしてもそれは「変えられない過去」に起因するわけで、未来にはむいていません。過去は変えられないのですから、ただ耐えなければいけない孤独で辛く苦しい「今の時」を、ただ悲しみに打ちひしがれている誰かのそばでじっとその空間を共にすることは、言葉を発する以上に意味があり、そして未来を共に作るように感じます。

人は良い時ばかりではありません。どんな人でも大なり小なり苦しい時を経験すると思います。そんな時に、周りにその思いの欠片でも共有してくれる誰かが居て欲しいなと思うのは皆同じだと思います。
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No title

あっこ様
みなさま

>答えはだせないことが多くて、たとえ答えがあったとしてもそれは「変えられない過去」に起因するわけで、未来にはむいていません。過去は変えられないのですから、ただ耐えなければいけない孤独で辛く苦しい「今の時」を、ただ悲しみに打ちひしがれている誰かのそばでじっとその空間を共にすることは、言葉を発する以上に意味があり、そして未来を共に作るように感じます。

これこそが、まさにアドラーいうところの「目的論」ですよね。
「起因した過去」を変えようと思っても、それは不可能です。それより、「これからどうするか。どうしたいかという未来=目的」をしっかり構築する必要があるわけです。
そして、アドラーは「人間のすべての行動には目的がる。」といっています。どんなに無目的的に見えることがあっても、必ず、人間は、何か目的があってしているのです。

さて、本題です。この節の「偉大なるお節介」については、前述されており、樋野先生が、あらためて力説なさりたい部分と感じました。(以下、引用。)

「だから、ぼくだって食べたいのはやまやまです。でも食欲はないし、正直食べられない。ところが、妻の『食べろ食べろ』が止まない。食事のたびに、顔を見るたびに、『食べて体力をつけましょう。さあ、少しでもいいから食べて』です。しだいに私は苦痛でしかたなくなりました。いや、言葉の暴力でしかないとまで思うようになりました。」

奥さんは、食べようとしても食べられない夫の苦しみを本当に理解しているでしょうか。実は、自分の気持ちを押しつけるだけの余計なお節介をしていることに気づいていないのです。

こんな夫婦もいます。
奥さんが病気で倒れました。
男というのは往々にして、妻というものはいつも元気ではつらつとしていて、自分の世話を焼いてくれるものと思いこんでいるようです。だから、病気になった妻にどう対応していいのかわからなくなってこんらんしてしまうのでしょう。
御主人は、やがてこれではいけないと気づいたようです。すると今度は、
「早く治して、一緒に旅行に行こう」
「治療法を変えたらどうだ。テレビでこんな情報をやっていたぞ」
「頑張れ頑張れ」

この場合も、自分の気持ちを押しつける余分なお節介しかできない夫気持ちのずれを感じます。

同じお節介なら、余計なお節介よりも偉大なるお節介をしましょう。他人の必要に共感することが偉大なるお節介、たとえ、相手が間違っていても余計な正論に走らず、よしと受容する心構えが大切です。
いたわりの言葉は、最小限でいいのです。偉大なるお節介は、同じ部屋にいて寄り添ってあげるだけでも十分であると私は思います。

自分ができないことがあることで、それを支えようと誰かが協力する。お互いの弱さや足りなさを補い合うことで人間として大きく成長していきます。
(以上)

はじめて、長期入院したばかりのとき、見舞いの言葉は、
「早く良くなってください。」の圧倒的な嵐でした。
それまで、年休も「完全不消化」だった私ですから、「すぐに治るだろう」ぐらいみんなが思っていたのでしょう。
しかし、結局は、約半年間の長期療養になりました。私には、入院前から、長期になることが予告されていましたから。

二回目の療養休暇のときには、「こちらのことは、気にしなくていいですから、ゆっくり治してください。」という言葉が圧倒的に多くなりました。
しかし、職場の同僚も生徒も、「気にしなくていい」と言っていた割には、学校の様子を逐一知らせてくれたのです。「お見舞いの整理券」を出したのは、前述したとおりです。
わたしは、すごく温かいものを感じました。そして、そのことが、復帰への大きなモチベーションになりました。

「余計なお節介から偉大なるお節介への変遷」を経験できたのだと思います。「悪性腫瘍の、しかも、ステージⅢ」という決して看過できない状況ではありましたが、私は、自分のなかに幸せを感じました。

樋野先生のお言葉も、私の体験も、アドラーいうところの「共同体感覚」につながるものだと体感しています。


タイトルを忘れました。

「余計なお節介よりも偉大なるお節介を」です

あきちゃん先生

あきちゃん先生 こんにちは!

本当に暑いですね。昨日は娘のピアノの発表会でした。
日頃の練習の成果がだせてよかったです。

ところで、「余計なお節介から偉大なるお節介への変遷」、
あきちゃん先生の体験のお話をきくとこの話が生きたもの
としてかんじられます。「気にしなくていいですよ」のお言葉が
あきちゃん先生にとりまして、本当に大きな原動力となられた
のですね。

余計なお節介なのか、偉大なるお節介なのかは
相手を思いやっているか、相手のことを思いやっているようで
実は自分のことだけを考えているかの大きな違いがあるのですね。

病を患うと、有刺鉄線のごとく繊細さが研ぎ澄まされているので
おそらく相手が発する言葉が自分にとってのものかどうかを即判断でき、また、それらを受け取るものと受け取れないものに分けることができて
しまうのかもしれませんね。

それでは、いつも有難いお言葉ありがとうございます。
コメントしばらくお待ちください。
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