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余計なお節介よりも偉大なるお節介を

暑い日が続きますね。蝉の声の響きが灼熱の季節に本当に似合います。ただ、脱水を起こしやすい季節ですので、皆様どうぞお気をつけください!
それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します。

さて、本題です。この節の「偉大なるお節介」については、前述されており、樋野先生が、あらためて力説なさりたい部分と感じました。(以下、引用。)

「だから、ぼくだって食べたいのはやまやまです。でも食欲はないし、正直食べられない。ところが、妻の『食べろ食べろ』が止まない。食事のたびに、顔を見るたびに、『食べて体力をつけましょう。さあ、少しでもいいから食べて』です。しだいに私は苦痛でしかたなくなりました。いや、言葉の暴力でしかないとまで思うようになりました。」

奥さんは、食べようとしても食べられない夫の苦しみを本当に理解しているでしょうか。実は、自分の気持ちを押しつけるだけの余計なお節介をしていることに気づいていないのです。

こんな夫婦もいます。
奥さんが病気で倒れました。
男というのは往々にして、妻というものはいつも元気ではつらつとしていて、自分の世話を焼いてくれるものと思いこんでいるようです。だから、病気になった妻にどう対応していいのかわからなくなってこんらんしてしまうのでしょう。
御主人は、やがてこれではいけないと気づいたようです。すると今度は、
「早く治して、一緒に旅行に行こう」
「治療法を変えたらどうだ。テレビでこんな情報をやっていたぞ」
「頑張れ頑張れ」

この場合も、自分の気持ちを押しつける余分なお節介しかできない夫気持ちのずれを感じます。

同じお節介なら、余計なお節介よりも偉大なるお節介をしましょう。他人の必要に共感することが偉大なるお節介、たとえ、相手が間違っていても余計な正論に走らず、よしと受容する心構えが大切です。
いたわりの言葉は、最小限でいいのです。偉大なるお節介は、同じ部屋にいて寄り添ってあげるだけでも十分であると私は思います。

自分ができないことがあることで、それを支えようと誰かが協力する。お互いの弱さや足りなさを補い合うことで人間として大きく成長していきます。
(以上)

はじめて、長期入院したばかりのとき、見舞いの言葉は、
「早く良くなってください。」の圧倒的な嵐でした。
それまで、年休も「完全不消化」だった私ですから、「すぐに治るだろう」ぐらいみんなが思っていたのでしょう。
しかし、結局は、約半年間の長期療養になりました。私には、入院前から、長期になることが予告されていましたから。

二回目の療養休暇のときには、「こちらのことは、気にしなくていいですから、ゆっくり治してください。」という言葉が圧倒的に多くなりました。
しかし、職場の同僚も生徒も、「気にしなくていい」と言っていた割には、学校の様子を逐一知らせてくれたのです。「お見舞いの整理券」を出したのは、前述したとおりです。
わたしは、すごく温かいものを感じました。そして、そのことが、復帰への大きなモチベーションになりました。

「余計なお節介から偉大なるお節介への変遷」を経験できたのだと思います。「悪性腫瘍の、しかも、ステージⅢ」という決して看過できない状況ではありましたが、私は、自分のなかに幸せを感じました。



ここまで


患者と家族、患者と友人、患者と同僚などそこには立場というものがあり、いつどこで自分がどっちの立場に立つかは判らないものです。そして、その立場にならないとわからない事は山ほどあって、経験者の具体的な話はとても視野を広げてくれるものだと思います。

自分の生を一生懸命生きているのと同じく、他者もその生を一生懸命生きている。 相手の行動が自分の意に沿わないようなものだったときに、どういう思いがあってそういう行動をするのかと想像してみること、答えがでないとしても、もしかしたらその沿わない行動の背景に自分の余計なお節介がなかったのかと自省すること、そして、思いつくところがあるとしたら慎むこと、など必要なことかもしれないなと思います。

100%自分に起こることの責任は自分にある、もしくは、自分の「ため」にあると考えるのが良いというのを聞いたことがあります。

「余計なお節介」をされてしまった、してしまったら、それを改善して「偉大なるお節介」について考え、行動できるための飛躍するチャンスを与えてもらったと捉えると良いかもしれませんね。
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時は流れても

髄液漏れ:発症認定せず「年金支給」地裁判決を逆転棄却
毎日新聞 2015年07月24日 21時07分


 脳脊髄(せきずい)液減少症の発症が労災事故によるものかが争われた訴訟の控訴審判決が24日、大阪高裁であった。江口とし子裁判長は発症自体を「証明されたとはいえない」と判断。事故との因果関係を認めて障害補償年金の支給決定(障害等級2級)を国に命じた1審・和歌山地裁判決を取り消し、原告側の訴えを棄却した。

 訴えていたのは、和歌山県内の元配管工の男性(44)。2002年9月、和歌山市内の工事現場で作業中、約33メートルの高さから落下した電線で負傷した。徐々に手足が動かなくなったとし、病院で「外傷性の脳脊髄液減少症に伴う四肢まひ」と診断されたが、和歌山労働基準監督署は06年、同症とせず、四肢まひも認めず障害等級12級と認定。男性は認定を見直すよう提訴した。

 1審判決は事故による発症とそれに伴う四肢まひを認めたが、江口裁判長は1審同様に国の研究班が示した基準に沿って症状を検討した結果、「発症が強く疑われるが、確定とまではいえない」と指摘。四肢まひになったとの男性の主張についても「客観的な所見はない」として認めなかった。【三上健太郎】


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いつまでこんな理不尽な判決が続くことかと心から思う。

先日、長いあいだ裁判で闘っていた女性から電話を頂いた。

「世の中の嫌な部分をたくさん見せつけられ裁判も終わりに近づいている。」と・・・。

私が彼女と知り合ってから長い月日が経過している。
私より前の事故だったので相当長い年月苦しんできたと思う。

頑張って闘っている途中で彼女とお会いした時は
自分の判決が今後の人のためになるならとの言葉も耳にした。

今回の判決も彼女の言葉も私の中にただただ虚しさを残した。

実際経験した人、患者さんを近くで見た人したわからないのか?
確かにあの苦しみは経験者にしかわからない。
他人の苦しみを変わって経験することは誰にもできないから・・・。

そんな私も治って時が経ち想いを馳せることしかできなくなっている。
時には忙しさに想いを馳せることも無くなっている時もある。

時間は流れて、認知度は少しは上がってきていても
患者さんの置かれた状況は私が苦しんでいたあの頃とあまり変わっていない。

最近はあきちゃん先生とあっこに書き続けてもらっているこのブログの読者になっていたけど
久々、自分への反省と判決文を読んだ虚しさを綴ってみようと思った。

あきちゃん先生、いつもありがとうございます。


寄り添う心は言葉を超える

梅雨が明けると、猛烈な暑さが到来しましたね。エアコンなしでは過ごせない気温になりましたが、冷えすぎて体がだるくなってしまったり食欲が落ちたりしていませんか? 足の冷えには注意しましょうね!それではあきちゃん先生のコメントを紹介します!


さて、本題です。(以下、引用)

がん哲学外来を訪ねてくる人は、言葉によって、会話によって傷ついた経験を持つ人がとても多いように感じます。

まず、患者さんは自身の病気や治療にについての不安を診療に当たった医師に相談できずにいます。
また、家族の何げないひと言が思いやりに欠けた言葉に聞こえたり、逆に、周りの人の気を遣いすぎる言葉に傷ついたりすることもあります。

あなたの身近に苦しむ人がいたら、余計な言葉をかけることよりもまず、寄り添ってみてはいかがでしょう。支えてあげる、などという大上段に構えるのではなく、隣にさりげなく寄り添えばいいのです。

寄り添う心には言葉を超える喜びを互いにもたらす力がきっとある。そのように私は感じているのです。
(以上)

本書は、がん患者を意識して書かれた書籍なのですが、このことは、すべての長期にわたる治療を必要とする患者さんに共通して必要と考えます。

私自身のことを考えると、このことは、かなりの程度実現されているように感じ、周囲の気遣い?に感謝せずには居られません。

自分の人生と他人の人生を混同しないようにすること…簡単なようで案外できていないものなのかもしれないと考えます。



ここまで

言葉というか、話には「間」がとても大切だと感じることがあります。「空(くう)」とも似ていて、その「何もない時間」が実はとても大切だと思うんです。話す内容よりも、何も話さない時間が・・。

言葉が刃になることは以前の記事でも何度か書いたことがあります。何も言わなくてもただそこにいること、貴方のことは思っていますよという気持ちをむけることは言葉よりも多くの安心感を与えることはあると思います。

その立場に立った人でないとどんな言葉が傷つき、どの言葉が傷つかないかは正確にはわかるはずもなく、また感じ方も人によっても違いますし、とても難しいと感じます。

ただ、自分のことを思ってくれる人が居るという安心感は言葉以上に傷を癒し助けるものだとも思います。

樋野先生は、多くの患者さんに接しそれを感じ取って、この章で患者の周囲の人のとるべき姿を示唆してくださったのではないかと思います。

なぜ病気になったのか・・なぜ事故に遭遇してしまったのか・・なぜこんなことが起こったのか・・答えはだせないことが多くて、たとえ答えがあったとしてもそれは「変えられない過去」に起因するわけで、未来にはむいていません。過去は変えられないのですから、ただ耐えなければいけない孤独で辛く苦しい「今の時」を、ただ悲しみに打ちひしがれている誰かのそばでじっとその空間を共にすることは、言葉を発する以上に意味があり、そして未来を共に作るように感じます。

人は良い時ばかりではありません。どんな人でも大なり小なり苦しい時を経験すると思います。そんな時に、周りにその思いの欠片でも共有してくれる誰かが居て欲しいなと思うのは皆同じだと思います。

明日死ぬとしても、今日花に水をやる

台風の影響で体調を崩した方がいるのではないかと察します。辛い時期ではあると思いますが、どうぞ、皆様お体をお大事にしてください。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!


さて、本題です。(以下、引用)
「もし明日世界が終るとしても、私は今日りんごの木を植えるだろう。」
と言ったのは、ドイツの神学者で牧師のマルティン・ルターです。宗教改革の中心人物として教科書で習ったことがあるでしょう。

この言葉の問われていることを私は、苦難の現実は誰にでも起きるけれど他者に関心を持つ、持ち続けることで貴い贈り物を遺すことができる、と理解しています。

「あなたは、明日死ぬとしても、今日花に水をやりますか?」
その花は、患者さんの周囲の人と同じです。「がんになった自分」だけにせいいっぱいになると、花に水をやる余裕がなくなることもあるでしょう。周りの人が離れていくと感じているのは、きっと自分の風貌が周囲と距離を置いているからです。患者さんの気持ちこそが周囲に向いていないのです。

「花に毎日水をやるように、あなたが周りの人のことを忘れず、慈しむように接するなら、たとえあなたが明日いなくなっても、あなたのことを5年先、10年先に思い出す人がいますよ。あなたのその生き方そのものが周りの人への贈り物になるのですから。」

この患者さんの行為、そして、水を与えられた鉢植えは、たとえこの患者さんがいなくなった後も、かけがえのない思い出とともおに、家族への贈り物として残されるでしょう。そうして、あなたが育てた花を。思いを、必ず誰かが引き継いで育てるはずです。
(以上)

私が入院中に一番気になってたことは、治療そのものに関することではなく、「私が、入院中、もしくは退院後に、『おみそ』として扱われるのではないか。」ということだったことは、前述しました。

幸い、入院中も退院後もそのようなことにはならなかったのですが、
これからは、その恩恵をを周りの人に返す番だと思っています。


ここまで

>あなたは、明日死ぬとしても、今日花に水をやりますか?」
その花は、患者さんの周囲の人と同じです。「がんになった自分」だけにせいいっぱいになると、花に水をやる余裕がなくなることもあるでしょう。周りの人が離れていくと感じているのは、きっと自分の風貌が周囲と距離を置いているからです。患者さんの気持ちこそが周囲に向いていないのです。

確かに、周りが変わったと感じるとき、それは、周りではなく自分が変わった・・ということはよくあることかもしれません。気がつかないことが多いために、他者を責めたりすることもあるかもしれません・・。

良い意味もしくは、悪い意味で自分が変わると、以前は気になっていたことが気にならなくなったり、反対に、以前は気にならなかったことが、気になったり・・ということが起こると思います。

「花が水を欲する」ことは今日も昨日も変わらないのに、花に水をあげる心の余裕がなくなるのは、自分に起こる出来事によって自分が変わってしまう例なのかもしれません。ただ、そんな時でさえ、変わらず咲き誇る一輪の健気な花に癒されたりすることも事実です。

そう考えると、他者や(他の生物)とのつながりを意識し、そこに感謝できるといいなと思います。そして、心の余裕がなくなりそうな時でさえ、花に水をあげることを忘れないような人でありたいし、周囲に笑顔をあたえることができるといいなと思いました。

お互いが苦痛にならない存在となる

雨が続きますね。そろそろ、洗濯物を外に干して、おひさまの光に当てたい!と感じています。
それでは、あきちゃん先生のコメントをご紹介します。

さて、本題です。(以下、引用)

自分のことだけを思い、自分のためだけに行動するよりも、自分が他人から必要とされていると感じたときのほうが、喜びははるかに大きいものです。患者さん同士は相手が必要としていることがより理解しやすいでしょうから、余計なお節介さえ注意すれば、たがいに喜びを分かち合えるでしょう。家族は、患者さんに与えているようでいて、実は喜びを与えられていることを、不安になったときにぜひ思い出してほしいと思います。
そして、スタッフや医療者は、「ありのままを認める」ことでさえも、患者さんと家族を支える喜びになることを感謝したいものです。
(以上)

4回も、長期入院をしたので、様々な患者さんを思い出します。山王病院と違って、公立病院の4人部屋でしたので、お隣やお向かいがどんな方かというのは、精神衛生上、大きな影響を及ぼしました。
Aさん…私と同病で、私が初めての入院の時には、すでに何回か入退院を繰り返されていました。
とても、開放的なかたで、ベッドの間のカーテンンも「好きなだけあけてください」とことらにまかせてくださっただけでなく、これからの治療の流れや、留意点などを教えてくださいました。あとでわかったのですが、看護学校の薬剤師をされている方でした。
Bさん…見るからにインテリで、枕元には、マリア像が置いてあります。(そう。カトリックの信者さんです。)この方は、自分が用があるとき以外は、カーテンを固く閉じて、あちらからは、一切話しかけてきませんでした。おまけに、夜中でもなんでも、お祈りしたいときはかまわず声をあげて(大声ではないですが)唱えていらっしゃいました。「神の教え」を私の都合に関係なく、説いていらっしゃいました。

私が、どちらの方と親しくなったかは、もうおわかりですよね?
Aさんとは、次の入院でも主治医が同じだったので、同じ病棟でした。ただし、2回目は、Aさんは、個室。
ある夜中に、たまたま私が水飲みに起きると、Aさんの部屋が明るく、御家族が集まっていらっしゃいました…すぐに状況は判断できました。

翌朝、奥様がわたくしのところにあいさつに来られ、「主人がまだ元気な時に、ご同室できたことをとても喜んでしました。」とおっしゃっていました。

次の入院から、私は、「Aさんのようにふるまおう。」と考えて、ほかの患者さんと接しました。それは、仕事や家庭でも一緒です。(家庭は、ちょっと自分勝手ですが。笑)
現在、新卒教員の指導をさせていただいておりますが、私の目標は、
新卒君と他の先生方の「触媒になる」ことです。なかなか性能の悪い触媒で、思うように行きませんが…

わたしとAさんは、親戚でもなんでもなく、たまたま2回の入院でご一緒しただけでしたが、Aさんとの出会いは私にとって一生忘れられrないものになりました。
こんなことも、わたしの「脳脊髄液減少症」との出会いに影響しているのかもしれません。

そして、そのことでお知り合いになれた高橋先生は、やはり「与える喜び」を持った方なのだと尊敬しております。




ここまで。

先日テレビに、ALSを患ったヒロさんという方が出ていました。
ALSというのは、体の神経が犯されて自分でできることがどんどんとできなくなる病です。今では、話すこともできず、人工呼吸器をつけて出演されていました。言葉は自分で発することはできなくても、ヒロさんは補助の機械をつかって(おそらく、目で言いたいことを機械に伝えているのだと思いましたが、)コミュニケーションをとっていました。そして、今の心境について、病気になったときは絶望に苦しんだけれど、今では多くの人とつながり活動することに喜びを感じており、こんな日がくるとは思ってもみなかったという趣旨のことをおっしゃっていました。

ヒロさんの周りには、ヒロさんとともにSTOP ALS活動に参加している多くのネットワークができていました。ヒロさんがおっしゃっていたことで印象的なことは、コミュニケーションができるということは生きること、尊厳にも繋がる大切なことだということでした。

「自分が他人から必要とされている、そして他人を必要としている」、これはコミュニケーションの根幹であり、生きるよろこびに繋がるのだと思います。患者であろうが、患者家族であろうが、ギブアンドテイクではなく、どちらも実は「ギブ=与える」ことをしているのだと私は思いました。

ヒロさんをサポートしている方はヒロさんを助けるというより、ヒロさんよりたくさんのものを与えられて、そして、ヒロさんに感謝していました。
「わたしなんかいなければ良い、迷惑ばかりかけて・・」と絶望してしまうほど辛い状況に追い込まれて追い詰められた方はぜひ、そう思わないでほしいと思います。いつも助けられるばかりで・・と自分を責めたりすることは決して必要ないのです。
身体が不自由であり、物理的には多くの人に助けてもらわなければいけなくても、その身体やその苦しみの状況を通して、精神的には多くの人にかけがえのないものを与えているのです。

どんな困難な状況でも、「ありのまま」で「受け入れる」ことができたならば、きっと、どんな立場であっても、喜びを得られるのだと私は確信しました。

いろんな人が世の中にはいます。でも、共通しているのは、人は生まれてそして生きて死んで行くのです。その過程で、多くの人と喜びを分かち合えること、精神性を高めることが生まれてきた一つの意味のように感じています。

言葉を発することができないヒロさんが、画面を通してですが、何も言わなくてもキラキラと輝いて私には見えました。
いつか、この病気の治験が進み、根絶されたら良いのにと思いました。
プロフィール

Author:あっこ&かーこ
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