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人生の目的は品性を完成するにあり

いよいよ、最終章のご紹介に入ります。あきちゃん先生から紹介された本は手にとって読むようにしていますが、本当にどれも私に気づきをくれるものばかりです。「与える」ということに関する章のスタートですが、あきちゃん先生が紹介してくださったアドラーのいう共同体感覚が発達すればするほど、「与える」=「喜び」になるようです。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します。

2月以来? ご紹介してきた 順天堂大学教授 樋野興夫先生のご著書「いい覚悟で生きる」(小学館)もいよいよ、第五章(最終章)「与える」に入ります。あと50ページです。
あっこ様、みなさま、お付き合いありがとうございます。

今回のテーマは、樋野先生が前の章でも述べられていますが、あらためて取り上げられている意味を考えたとき、「与える」という要素が含まれることが多気のではないかと考えました。

アドラーいうところの「共同体感覚」です。私は、共同体から必要とされているという意識こそ、その人の生きがいになるわけだし、そういう貢献的な行動の積み重ねが、その人の「品性」になるのだと思います。

さて、本題です。(以下、引用)

「がんになる前の自分の人生が最高だなんて、だれが決めたんですか ? 今の仕事が好きなら、続けられたらいいじゃないですか。自分で決める人生は、病気とは関係ありませんよ。」

困難、苦難は、がんに限らず、だれにでも襲いかかるものです。そのとき、以下に耐えるか。そして、「人のためになる」ことにいかに気持ちを向けられるか。耐えることで品性が生まれ、品性を磨くことによって希望が生まれます。
(以上)

この節は、樋野先生が、私に、私の生きる指針を諭してくださっているのだと感じました。

私は、自分の疾病に対して「耐える」と思ったことは、ほんの初期段階をありませんが、「人のためになる」ことは、常に意識していたように思います。そして今でも…

実際に、どれだけ人の役に立っているかどうか、はなはだ疑わしい部分もありますが、「お役に立ちたい」といつも考えていますし、これからもその考えは続くだろう、いや、続けなければいけないと思っています。



ここまで。

ご自身も病でありながら、他の疾患のことも理解してくださってこうして毎回コメントを頂けることは本当に有り難く感謝申し上げます。このコメントで何かしら生きるヒントを得る人がいるかもしれないので、あきちゃん先生はこちらのブログでも「本当に役にたちたい」とおっしゃる気持ちを形にしていると思います。

実は、自分が役に立ちたいと思っていても相手が望んでいない場合、そのときは身を引くことも大切かな・・と感じたこともあります(笑)。特に私は病の経験者でもないわけですから、色々と難しく感じたことも正直ありました。

ただ、こうしてブログを続けているのは、もしかしたら誰か会ったことも話したこともないけれども、覗いてくださ方の役に立っているかもしれないという気持ちからなのかもしれません。

私は「誰かの笑顔を見たい!」という気持ちを常に持っています。だから、仕事をしていても、関わる人の笑顔を見たいという気持ちが私を動かしているようにも思います。家のことも、家族の笑顔が見たいという気持ちで日々の雑多なこともしているように思います。

今日一日誰かにに笑顔を見せることで幸せになる人がいるのですから、笑顔を忘れずに過ごすことも「人のためになっている」=「与える」意識を手軽に具現化したものだと思います。

笑う門には福きたるですね。
ところで、余談ですが、森三中の大島美幸さんのお子さんが生まれましたね。お名前が笑福(えふ)くんだそうです。二度の流産を経験された大島さん、笑いをみんなに与える裏で、沢山涙も流してたのかもしれません。素敵なご両親のもとに生まれたお二人のお子さんらしい素敵な名前ですね。
「笑」は良いですね!
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センス オブ プロモーション

今日は梅雨らしい天気です。気圧の影響もあり、脳脊髄液減少症の患者にとっては、本当に辛い時期だと思います。どうぞ、お身体をご自愛ください。それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します。

さて、本題です。(以下、引用)

「センス・オブ・プロポーション」
悩んだとき、迷った時は、何が大切で何がどうでもいいことかを決めるセンスを磨くことが大切です。(当節リード文)

この言葉は、新渡戸稲造が残した言葉です。

イギリス人やアメリカ人は、何が大きいことで、何が小さいことかを見極める「センス」をもっている。ところが、日本人には、それが欠けていて、重要なことと些細なことを混同して、どうでもいいことの周囲をうろつくばかりで、核心をつかめないという手厳しい評価です。

悩んだとき、迷ったときは、何が大切で、何がどうでもいいことかを自分で決めること、そして、すべきことがわかれば、手順を踏んで本気でやることです。
人にまかせられることはまかす、これも肝に銘じておきたいことです。

ときに、患者さんやスタッフの中には、人間関係についての悩みを吐露する人もいます。また、病気とは関係のないたぐいの悩みを訴えることがあります。
そんなとき、私のアドバイスは決まっています。
「ノミ、シラが肩をちくりと刺すごとし」
センス・オブ・プロポーションのエッセンスをユーモアを持って表していると思います。
(以上)

前述しましたが、「悩みをもつ」ということは、その人が今以上に伸びようと考えている証拠だと考えています。全然、悪いことではありません。
また、小さい悩みごとは、日常生活を大きく発展させます。それが日本人の長所でもあると思います。長所と短所は表裏一体なのです。

問題なのは、悩みがあるかどうかではなく、それを解決する手段や気力をその人が持ち合わせているかなのだと思います。
それで、人間の「大きさ」や「品性」も決まってくると思っています。



ここまで

>イギリス人やアメリカ人は、何が大きいことで、何が小さいことかを見極める「センス」をもっている。ところが、日本人には、それが欠けていて、重要なことと些細なことを混同して、どうでもいいことの周囲をうろつくばかりで、核心をつかめないという手厳しい評価です。

これは、言語にもその理由があるように感じています。英語はまず言いたいことを最初に述べる言語なのに対し、日本語は最後まで何が言いたいのかわからない。誰がどうしたいのか。したくないのか・・。これが曖昧なままで最後までわからない。主語を明示せず結論が最後までわからない言語文化に日本人の曖昧さの一端があるように思います。

ただ、それが悪いことなのか・・というと、私はそうとも思いません。それは、日本人の奥深さにもつながり、思いやりにも繋がっていると思うからです。

曖昧さに関してのみいえば、最初の悩みから派生して、悩み自体も曖昧にし、次から次へと悩みを大きくしたり、重要なことをぼかしてしまうのはとても残念なことのようにも思います。

悩みができたなら、それが自分の力で解決できるものかどうかを判断して、それが他者を変えないと解決できないようなものであるのなら、さっとその悩みを手放す(離れる)ことも必要かもしれません。自分の努力で解決できるものであれば、時間薬という薬をフルに活用しつつ、尽力してみると良いかもしれません。抱え込まず、だれかに話してみて重荷を軽くするのも良いかもです。

あの時あんなに悩んだけど、今となっては懐かしい思い出・・ということも思い返せば沢山あり、そう考えると、今の悩みは永遠には続かないとも言える気がします。過ぎていく時間の中で、かならず薄らいでいくものだとも思うのです。

あきちゃん先生のおっしゃる、「解決する手段や気力をその人が持ち合わせているか」ということが、悩みに限らず、どんな場合でも問題が起こったときの大切な姿勢のように思います。「悩みがないのよ~。幸せ~」・・と屈託なく話す友人を見ていると、自分なりの解決策を持ち合わせていると感じることもあり、それは実は深い経験から身に付けたものであることもよくあることのように思います。

また、『人間の「大きさ」や「品性」』は、苦しい経験をしたような場合には、それを自分の味方につけて、そういう経験がない人よりも早く確立できるのかもしれないと思います。

自己に頼るべし、他人に頼るべからず

梅雨特有の重い雲の立ち込めた空模様ですが、傘の出番は昼間はいらないかもです。
ただ、庭の紫陽花はつかの間の晴れ間の時でさえ、どこか雨を待ちわびているように見えます。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!

さて本題です(以下引用。)

内村鑑三「成功の秘訣」
もとは、星野温泉の三代目に贈ったものですが、商売とは無縁の人にも、学ぶところの多い10か条です。

1 自己に頼るべし、他人に頼るべからず。
2 もとを固うすべし。さらば事業は自ら発展すべし。
3 急ぐべからず。自動車のごときも、なるべく徐行すべし。
4 成功本位の米国主義に倣うべからず。
5 濫費は罪悪なりと知るべし。
6 能く天の命に聞いて行うべし。自らおのが運命をつくらんと欲すべからず。
7 雇い人は兄弟と思うべし。客人は、家族として扱うべし。
8 誠実によりて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。
9 清潔、整頓、堅実を主とすべし。
10 人も全世界を得るとも、その精霊を失わば、なんの益あらんや。人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり。

誠実を説き、物質的充足よりも精神的な充足と、品性の完成を人間としての基本に据える内村の言葉は、時代を経ても新鮮に胸に響きます。まさに、内村が掲げる「妥協のない純粋な自由」を思わずにはいられません。
とくに10は、私が言葉の処方箋で多用する「人生の目的は品性の完成にあり」の出典です。

中国の孟子は、「天爵を修めて人爵これに従う」という言葉を残しています。
人爵とは、人間や社会から与えられる名誉、利益、財産、地位などのことです。品性をつくれば、人爵は、その結果として自然に得られ満たされた人生が実現するでしょう、という教えです。

成功、財産、地位…。人がこしらえた価値観にすぎないものを、生きる目的とするのではなく、自身にとっての品性は何かを静思し、発動することを期待するばかりです。
(以上)

とても、内村鑑三や樋野先生や、ましてや孟子のような達観した考え方には到達できそうもありませんが、それでも、もう仕事もリタイヤして、子どもにも手がかからなくなり、何の借金があるわけでもないので、「成功本位の米国主義」にこだわる必要も全くありませんし、品性を持った生き方を目指して行きたいとは思っていたところです。



ここまで。

キリスト教者であった内村鑑三の言葉の多くに、仏教の教えや自然を敬う神道の教えにも通じる宇宙の普遍的心理があるように思います。
素晴らしい教えは、時空を超え、どんな宗教の枠にも囚われることなく繋がっているものなのだと感じずにはいられません。

孟子の教えの「品性をつくれば、人爵(名誉、利益、財産、地位)は、その結果として自然に得られ満たされた人生が実現するでしょう」には、“強者”の成功哲学が少し見え隠れするのでそうかもしれないけど、違う部分もあるのではないかな・・と思う部分が実はあります。
樋野先生はその部分についても、「成功、財産、地位…。人がこしらえた価値観にすぎない」と説明を加えており、病でそういう物を放棄せざるを得ない方々を察して補足を加えたのではないかと感じます。

品性を高めることが、人生の目的でありその結果として、成功、財産、地位を得られることもあるかもしれませんが、たとえ、そんなものがなくても品性が高められたら、その人生には価値があるのだと私も思います。

逆に言えば、成功、財産、地位を得ていても、仲間を平気で傷つけたり、他者を苦しめた上で富を得たり、自己顕示欲を強める目的でえたような地位のようなものは、品性が伴っていなくて人生の目的を見失ったものだとも思います。

一朝一夕で品性は培われるものではなく、本当にそれが得られるのは長い年月と日々の努力が必要なのではないかと感じます。私も、それを目指していきたいと思います。

グレーゾーンに対して語るには愛しかない

今日の関東は涼しい一日でした。雨がこのあと降るのでしょう。体調がよくなく方にとっては辛い時期かもしれません。どうぞ、皆様お身体を大切に。

それでは、あきちゃん先生のコメントより紹介します。

さて、本題です。(以下、引用)

なぜ病気になったのか、なぜがんになったのか、なぜ障害があり生まれてきたのか。なぜかはわからないけれど、こうなってしまった、という線引きのできないグレーゾーンで多くの人がみんな悩んでいるのです。

考えてみれば、人生も世の中の様々な現象も、グレーゾーンだらけです。足下を照らす懐中電灯を得たかのように、その悩みを対話で解消し、その人なりの「いい覚悟」を持てるようにしてあげたい。その思いを支えるのは、間違いなく愛です。

問題の解決には至らなくても、不安が解消されることは、足下を照らす懐中電灯を得たような思いになります。
(以上)

私は、職場で、ずっと「教育相談の係」というのをやってきました。ほとんんど私のキャリア全般とかさなります。

そこで、「話を聞いてもらえただけで、少し安心した。」という生徒や保護者の想いに、山ほど接してきました。たとえ、問題そのものが解決しなくても…です。「相談できた段階で、悩みはほとんど解決している。」というのも聞いたことがあります。

たぶん、樋野先生も、このことをおっしゃっているのだろうと、勝手に都合よく解釈しております。

つまり、「寄り添って、話を聞いてくれる人」の存在が大切なのです。
脳脊髄液減少症にも、そういう立場の方がどんどん増えることを、切に願っています。


ここまで

>人生も世の中の様々な現象も、グレーゾーンだらけです。足下を照らす懐中電灯を得たかのように、その悩みを対話で解消し、その人なりの「いい覚悟」を持てるようにしてあげたい。その思いを支えるのは、間違いなく愛です。

グレーゾーンはブラックボックスに放り込む、自分で答えが出せないことはそのままで放っておくほうがいいのかもしれません。ただでさえ苦しいのに、さらに答えが出せないことに悩むのは体に良くないようにも思います。

私も、昔は小さいことに悩んだりしていました。今もそういう部分が無いかといえば間違いなくありますが、少しは悩むという時間を前よりも短くすることができるようになったと思います。気持ちを切り替えることで楽になることを少しは学んだようにも思います。

むしろ、悩みがない人のほうが少ないと割り切ったらよいかもしれません。大なり小なり人は悩むのだと。そこを経て、ある人は短時間で、ある人は時間をかけて何かをつかむかもしれませんし、私は、悩んでも何も答えがでないことを学んだようにも思います。

時間薬というのが実は特効薬ではないにしろ、副作用のない漢方薬のように体に馴染む気がします。その間に樋野先生がおっしゃるような「愛」を沢山感じたならば時間が短くてなんらかの突破口を自分で見出すかもしれません。

あきちゃん先生が相談係としていろんな相談を受けているというお話、納得します。人はだれかに心を吐露すると楽になるものだと思います。実は、回答は自分がすでに持っていることも多くて、ただその回答を受け入れられないから聞いてもらいたいということもあるように思います。そういう時は、心を許せそうな人に、思いきり泣いて苦しみを伝えてみてもよいかもしれません。


辛い思いを溜めないこと。これも実は大切な薬かもしれませんね。

愉快に過激に品性をもって

梅雨の季節が近づいてきましたね。今日の雨は、もしかしたら梅雨の始まりかもしれません。私はというと、5月末から非常に忙しくしておりましたが、ひとまず落ち着いた生活に戻りました。

自然災害が本当に多くなりました。自然の驚異を感じるとき、自然が今まで無言で与えてくれている多くのものに思いを馳せ感謝しなければならないなと最近つくづく思っています。

それでは、あきちゃん先生のコメントをご紹介します!


「人生は、選択の連続である。」とは、シェークスピアの名言ですが、どういう選択肢を、どのように選択するのかが大切ですよね。
選択の幅が広ければ広いほど人生は豊かなものになります。

日本人が「選択」というと、すぐ「右か?左か?」ということになってしまいがちですが、そういう両極端だけの人生は、つまらないですよね。
「中道」や「両忘」の考え方は、現代の日本人にこそ、就中「、病を得たときにこそ必要な素養だと思います。
樋野先生の「楕円形」の考え方だけでなく「自分を忘れたところにこそ真実がある。」という考え方そのものだと思います。


さて、本題です。(以下、引用。)

かつて、不治の病といえば結核でした。ペスト、コレラなども怖い病気ですが、これらはみな感染症です。
それに対して、がんはいわば内なる敵ですから、共存することが求められます。我が家に不良息子ができたからと言って、親はわが子を排除することはできません。
がんも共存したうえで、本来の細胞としての役割に戻るよう、穂日進歩する医薬品や医療技術をもって闘うのです。

それはさておき、親しい人ががんだとわかると、「頑張って闘ってください。」「あきらめたら負けですよ。」などという言葉をかけていませんか?
相手を気遣い、励まし、力づけたいと思って心からかける言葉なのでしょうが、だれよりも頑張らなければと思い、頑張っているのは患者さんなのです。そのわきから、「頑張れ」「負けるな」「闘いぬいて」という声を聞かされ続けている相手の本当の苦しみを理解しているでしょうか?
「頑張れ」「負けるな」と言われることは、逆効果ではありませんか。「頑張れない人はだめな人間だ」「負けなのだ」と落ち込んでしまうでしょう。
病気になったことは、決して負けではありません。患者さん自身はもちろんのこと、家族や周囲の人も、それを忘れてほしくないのです。
特にがんのような長期にわたって闘うための治療と経過観察が必要な病気とは、これからの時間を大切に向き合うように過ごしてほしいと思います。
「愉快に過激に品性をもって」
世の中に愉快な人はたくさんいます。過激な人もいます。私が言う「過激な人」とは、実行力、行動力が伴う人という意味です。また、何事にも真しに向き合う品性を備えている人もいます。けれども、この3つを併せ持つ人はめったにいません。だからこそ人の模範になるように、そういう人を目指そう、と私は言うのです。
内なる敵との長い共存の道を歩むとき、人生の目標は必ずあなたの力になるはずです。
(以上)

「樋野先生、ありがとうございます。」そういう気持ちでいっぱいです。
私は、自分の悪性腫瘍を「敵」とも「闘う」とも考えていませんが、「長い共存の道を歩む」という意識は、かなりはっきりしているつもりです。そのモチベーションを樋野先生にいただきました。
他人から見たら、「なんとノー天気なことか。自分の病気をもっと心配しなさい。」と思うでしょうが、このくらい緩いほうが、私の生き方に合っています。



ここまで。

あきちゃん先生は常に闘わない姿勢のことをおっしゃっています。自身の考え方を強くサポートしてくださる医学会の権威がいらっしゃることは本当に心強いと思います。

医師の考えと自分の考えが違ったり、以前は医師の暴言が隠撮されてニュースになるようなこともありました。樋野先生のような先生が増えるといいなと私も思いました。

闘うという姿勢には勝ち負けがついてまわるような気がして、ひとつ前の記事の話にもつながりますが極端な気がして私もあまり好きではありません。治らないと言われるような病はとくに、負けたら生きる価値を奪われるような気もして、なんだかそれも違うな・・と私は思っています。

そして、この章で樋野先生が述べられている言葉の中に、患者の家族やお見舞いに行く時のその人の姿勢についての心得もありました。私は、「かわいそう」という言葉をかけることはしません。なぜなら、自分が病になったときを想像して、その時にかけられたくない言葉が「かわいそうに」という言葉だからです。同情というより、その言葉は上からの視点があるような気がして自分は使いたくない言葉です。

かけられて嫌だなと思う言葉には価値観が関わってくるので、とても難しいと思います。

「頑張って」という言葉に傷つくことはよく言われることです。言われなくても「こんなに苦しんで、誰よりも(少なくともあなたよりは)頑張っているから」いいたくなるのかもしれません。同じ「頑張って」という言葉でも同病の人に言われるのはまったく傷つかず、むしろ頑張ろうと思うのかもしれません。 

また、「愉快に過激に品性をもって」という樋野先生の視点も面白い視点だと思います。この3つを並列で語るという意外性に最初少しクスっと笑ってしまいました。ただ、「過激」という言葉について自分がもっているイメージと、樋野先生がおっしゃる「過激」の意味合いが違っていたのでなるほど~と思ってしまいました。確かに、なかなか存在しないとは思いますが、目指すべき性格だと思いました。
プロフィール

Author:あっこ&かーこ
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