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楕円形のようにバランスよく生きる

5月も後半ですね。明日は子供たちの運動会です。
毎年のことながら、子供たちの一生懸命さや目の輝きに
パワーをもらえる気がします。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!

(以下、引用)

「真理は円形にあらず、楕円形である。」と言ったのは、内村鑑三です。

同心円の社会は価値観や思想が均一的なため、異質のもの、相反するものを内包できず、排除する傾向にあります。力で組織内の均衡を保つわけですから緊張を強いる社会です。
いったん異質なものが侵入するとどうでしょう。あるいは組織内で反乱がおきたとします。免疫がないわけですからパニックを起こし、結果的に自浄作用が働かなくなり、組織は滅びてしまいます。
がん細胞が、同心円的に異常増殖していく特徴を持っていることも見逃せません。

それに対して、定点を二つ持つ楕円形は、健全な生態システムとして機能します。

生物の体には、対極的な働きをするものが同居しています。例えば、
自律神経には、互いに反対の作用をする「交感神経」と「副交感神経」があり、一方は活動を活発にし、、一方では活動を抑えていることは御存じでしょう。
同様に、細胞内には「がん細胞」と「がん抑制遺伝子」があって、通常はバランスをとって、がん化を抑えています。
相反するものを認めて共存すること、それが楕円形の精神です。このシステムこそ、体内の健全な楕円の働きと言ってよいでしょう。


病気を患ったときやトラブルを抱えたとき、同心円的な考えの人は、悩みそのものよりも、「異物のある自分」を受け入れられないことに苦しむようです。
人間はそんなに強い人ばかりではありません。精神的に落ち込んで、後ろ向きになってしまうことだってあるでしょう。
しかし。「こうあらねばならない。」という同心円的な価値観から自分を解き放つことで、心は楽になります。
「完璧でなくていいんですよ。楕円形のように少々いびつでいいんです。それどころか、ところどころにほころびがあってもいいんです。」

病気やトラブルがない人はまれでしょう。ならば、病気も込みで人生、いいことも悪いことも込みで人生と考えてみる。まさに、楕円形の2点バランスです。

不幸があるから対極的な幸せに気づくことだってあります。自信を失うことで謙虚さを得ることだってあります。それは、人としての品性と包容力が高まることではないでしょうか。
(以上)

みなまで申しません。私の「病と闘ってどうするの?」という思いを、樋野先生が代弁してくださっています。
同時に、ロータリーエンジンを開発して大躍進したマツダ自動車のことを思い出しました。

思考の硬直化こそが、大病を罹患したときに気をつけなければいけないことなのかもしれません。



ここまで・・

内村鑑三のお言葉には私の今までになかった視点がありましたので非常に心に響きました。
私は、角があることは良くない、円が良いと思っていましたので。

内村鑑三はクリスチャンでしたが、この視点はおそらく「中道」や「両忘」といった仏教や禅の教えにも通じると私は思いました。両極端を内包することによって、極端を避けることができるのではないかと思います。

極端をさけて真ん中の道をという「中道」、是と非、善と悪、美と醜、愛と憎など両者の対立を忘れ去ることが「両忘」ですが、人間である以上、そういうものの両方を持ってしまう自分の性を理解しつつ、その両極端を楕円でオブラートに包みこむイメージが浮かびます。

病になった時に、あきちゃん先生のおっしゃる思考の硬直化をさけるためには、病自体や、もしくはその原因に囚われすぎず、なにかそれを忘れることができることや、和らげることができそうなことを(思考が明るくなるようなこと)を考えるだけでも思考が極端に狭められることは無くなるのかもしれません。

物質の豊かさは瞬時のごとく消え、新たな欲望をかきたてますし、病の苦しさを経験することは、他の苦しみを想像する力や優しさも生み出します。

何が良くて、何が悪いかは誰にわからないのだから、今ある現状を楕円形をイメージして、良い時も浮かれすぎず、悪い時も悲しみすぎないことが大切だと思いました。

あきちゃん先生がおじいさんになられるようで、私も元気なお孫さんの誕生を心からお祈りします!
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今日は「今日の苦労」で十分

心地良い季節が到来ですね。暑くもなく、寒くもない。
エアコンがいらないこの時期は、一番自然を体感できる
季節なようにも思えます。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!


手術後の経過もいいし、医師からも特に気にすることはないと言われているのに、趣味の写真撮影にに夢中だった夫が、人が変ったように一日中ただぼんやり見るともなくテレビを見ては、出演者やアナウンサーの文句を言っているだけになってしまったというのです。

「今日は、『今日の苦労』で十分です。不安を感じるのは、未来のことばかり気になって今が抜け落ちているからなんです。昨日までのことを考えてくよくよ思い悩まず、明日のことを思い煩うのは明日にして、今日が人生最後の日と思って、今を生きましょう。今日が最後だと思えば、少なくとも再発の心配はありませんよね」

がんに限りません。病名は何であれ、きりがないほど気にして、病気や不具合だけを日がな一日、考えている人がいます。無理からぬことですが、やはりできるだけ心配事は優先順位を下げて考えるようにしてください。
では、優先順位を下げるにはどうしたらいいのでしょうか?自分の人生や生活の中で何を優先すべきは、まずじっくり考えることから始めてもいいかもしれません。趣味や愛犬の世話など、「病気のこと以外」で目の前のやるべきことを一生懸命やる、あるいはボランティアをすすめます。
(以上)


高橋先生が、数度にわたって「できることをする」とコメントしていらっしゃいます。まさに樋野先生がおっしゃることと合致していいるのではないでしょうか?

私も、5年に一度「余命宣告」をされる身ですが、今から、次の五年を不安に思うのではなく、5年ごとに「次の5年に自分ができることは何か。」を考えています。




ここまで。

>今日が人生最後の日と思って、今を生きましょう。今日が最後だと思えば、少なくとも再発の心配はありませんよね

「今日が最後だとわかっていたなら。」有名なので、ご存知な方も多いとは思いますが、アメリカのノーマ・コーネット・マレックさんとい女性の方によって書かれた詩があります。
10歳という若さでこの世を去ってしまった息子を思って綴られたこの詩には、ノーマさんの息子に伝えたかった想い、そしてどんな人にも訪れるその終わりの時を胸に一瞬一瞬を大切に生きてほしいという強い願いが込められています。

最後だとわかっていたなら


あなたが眠りにつくのを見るのが最後だとわかっていたら

わたしは もっとちゃんとカバーをかけて 神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたら

わたしは あなたを抱きしめて キスをして そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたら

わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても分かってくれていたかもしれないけれど

最後だとわかっていたら

一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と わたしは伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる

でももしそれがわたしの勘違いで 今日ですべてが終わるのだとしたら

わたしは 今日 どんなにあなたを愛しているか伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも

明日は誰にも約束されていないのだということを

愛する人を抱きしめられるのは 今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら 今日でもいいはず

もし明日が来ないとしたら あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや抱擁やキスをするための ほんのちょっとの時間をどうして惜しんだのかと

忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを どうしてしてあげられなかったのかと

だから今日 あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう

そして その人を愛していること

いつでも いつまでも大切な存在だということを そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝えるときを持とう

そうすれば もし明日が来ないとしても あなたは今日を後悔しないだろうから
・・・・・・・・




アメリカのテロが発生した時にもこの詩がとてもよく引用されたようです。

死は病人だけにおとずれるものではありません。
病気の方、とくに不治の病の方は、死を意識することが強いだけであって、明日の命はだれにもわからないのです。
そうすれば、樋野先生がおっしゃるように、今日一日を明日への気苦労で過ごすか、愛をもって過ごすかは変わってくるようにも思います。

という私も、思春期を迎える娘と口喧嘩になることも多く、一日を、命を意識しながら愛をもって過ごすことができているかといえば、そうではありません。いろんな意味で、私自身も、樋野先生がおっしゃる「今日は今日の苦労で十分」や、ノーマ・コーネット・マレックさんの詩の深い意味を理解しなければならないようにも思います。

あきちゃん先生のように、余命というものを目標の一区切りと考えるのは、実は以前からあきちゃん先生がおっしゃるリフレーミングであり、命を意識するからこそ、一日一日を精一杯にいきることにも繋がるのだと思いました。

今日一日、輝かせましょう!

病気であっても病人ではない

あきちゃん先生の今回のブログに関しても、毎回のことながら、非常に共感しています。
というのも、2012年になりますが、「俯瞰してみる」ということに関してブログも残しています。あきちゃん先生のコメントを紹介した後、貼付しておきます。

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介いたします!



>あきちゃん先生が、脳脊髄液減少症の周知活動に協力してくださっています経緯も今回は紹介させていただきました。

実は、私が「脳脊髄液減少症」という病名を知ったのは、この病気の権威であられる山王病院 高橋浩一先生とお近づきになれたことがきっかけでした。
それも、病気のことから始まったのではなく、高橋先生の大贔屓である「日本ハムファイターズ」球団のGMをたまたま私の一番年の近い叔父がしていたことが発端でした。

しかし、高橋先生のお話を伺い、本症を取り巻く現状を知れば知るほど、「理科的なことと社会科なことを混同してしまっている矛盾」に気づき、本症の保険適用に向けて、職業上も、一般社会人としても、何かできることはないかと考えているところです。
幸い、高橋先生には、当地でご講演いただくことができましが、そのほかは、患者会のHPへの記述、市立図書館への蔵書リクエスト等、だれでもできるような簡単なお手伝いぐらい」しかできていませんが…

さて、本題です。
樋野興雄夫先生(順天堂大医学部教授)の「いい覚悟で生きる」(小学館)のご紹介も、いよいよ第4章「乗り越える」に入ります。

「病気であっても、病人ではない。」
この言葉は、常に私が心がけている言葉ですし、高橋先生も常々おっしゃっています。

(以下引用)
「自分の環境を固定して、限られた視野から物事をみるよりも、俯瞰的な視点から気づくことは多いはずです。」
(樋野先生のリード文から。)
病気で悩んでいる人は、往々にして、車の運転席のような限られた視野から世界を見て、それが世界のすべての世界だと考えてしまいがちです。その視野をぐんと広げて、空から下界を見てみましょう。俯瞰で見ると、今病気である自分がすすんでいる道の様子や行き先を見はらす気持ちになりませんか。そして今抱えている悩みが、案外と小さいものだと気づくこともあるでしょう。病人という境遇から離れて広い世界を見ることは、物事の本質を見極める視点を持つことです。それは自分自身を取り戻すきっかけになります。

聖書のマタイによる福音書24章6節に、次のような文章があります。
「また、戦争のことや戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」
私は、この「戦争」を「がん」に言い換えてみるのです。
「がんの情報やがんのうわさを聞くだろうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。いつかがんは発症するでしょう。しかし、終わりが来たのではありません。」

病気であっても、病人ではない人生を生きられる社会の構造は、私とがん哲学外来の偉大なるお節介としての使命だと思っています。
(以上)

社会の構造もそうあるべきだとは思いますが、それよりも重要なのは、患者一人一人が、「病気ではあっても、病人ではない。」と思えるようになることが「いい覚悟で生きる」患者の資質だとは、ずっと考えてきました。
その考えと樋野先生のお考えが、たまたま一致しただけと、「都合よく」考えています。笑


ここまで。

都合よく考える。これは私も良くします!悪いことがあっても、これは自分のために起こったことだとなるだけ考えるようにするんです。そうすることで、すべて自分なりに消化(昇華)できますから・・。

そして、高橋先生も仰っていたことにも通じますが、「病気であっても、病人ではない」ということ。これも、そのとおりだと思っています。私は、障害とか、病気というのは、この世で纏う衣装のようなもので、その衣装を纏える人は、その衣装をきてもなお生きていける精神をもつに神様に選ばれた方だと勝手に、「都合よく」解釈しています。だから、患者さんのものすごく磨かれた心を垣間見た時に「やっぱりね!」と思うんです。

以前俯瞰してみるということに関してもブログに残しています。2012年月のブログを貼付しますね。

http://akkokako.blog99.fc2.com/blog-entry-340.html

今いる視点より少し離れた視点で自分を観る(俯瞰する)ことは、今の自分を悲観するのではなく、むしろ点としての今の自分を捉え、長い人生の中でジャンプする前の屈んだ状態で、必要な時(点)だととらえることもできるかもしれません。

今がずっとは続かない。今以上悪くなるということも良くなるということも誰にもわからない。そうすれば、良い方を向いて行きたい(生きたい)です。

病という衣装を身にまとって、それが治らないといわれるような病であったとしても、その衣装で纏われた精神は間違いなく以前とは違うものを観て、以前とは違うものを感じ、輝きを放っているのかもしれませんね。そして、それが人が生きていく上で本当に大切なことのひとつなのかもしれません。

「天寿ガン」で生きましょう

GWも終わりましたね。今年は、伊勢神宮と熊野本宮に参拝してきました。景観も素晴らしかったですが、言葉にできない趣と重厚感がありました。古代からの祈りの蓄積を感じました。日本の心のふるさとですね。

それでは、あきちゃん先生のコメントをご紹介します。


つい最近まで、「がんは不治の病」と言われ続けてきました。
見る影もなくやせ細り、抗がん剤の副作用に苦しんだ挙句、痛みに耐えかねて悶えながら、一命を落とす…こんなイメージをお持ちの方も少なくないでしょう。
最近では、当地のがんセンターの医療過誤が大きな社会問題にまで発展しました。

実は私もそこの患者でした。最先端の放射線療法で、大変お世話になっただけに、今回の報道は残念で仕方がありません。

このような暗いがんのニュースの中、現在では、とくに分子標的薬の進歩により(医学・薬学的な進歩だけでなく、保険適用になったことが重要です)、私のようなステージⅢの患者でも、社会生活が営めております。
ステージⅣ(臨死状態)に進行するまで、気づかないということはないはずなので。

(以下、引用)
がんは、遺伝子のがんが変異してがん細胞ができても、外部から意識的に介入すれば、つまり、早期発見と的確な治療によって、病状や信仰を変えられるドラマタイプの病気といえます。また、いずれは発がんに至るとしても、80歳で発症するのと、40歳で発症するのとでは人生、大きな違いがあるのは言うまでもないと、
40歳でがんになっても80まで生きられるように、がんの進行や転移を遅らせる、完治とまではいかなくても、天寿がんを全うするまでがんの細胞と共存しながら生きていく「天寿がん」の実現化ががん研究の責務と思っています。

「天寿がんでいきましょう」
この言葉の語感には、がんと共存する人生を患者さんと家族が心地よく受け止めたくなるような、さりげない機能があるようです。
(以上)

この節は、まるで、樋野先生が私をご存じで、私のために書いてくださっているように感じました。
48歳の秋に、咳がなかなか止まらないとおもっていたら、半年で体重が20kgも減り、階段を2階に上るのも大変になっていました。

精検、即、入院。半年間に及ぶ長期のR-CHOP療法の開始です。
http://ganjoho.jp/data/professional/med_info/path/files/basic_pub_ML01.pdf
(最近では、これらの治療が入院なしで行える患者さまも多いそうです。)
半年間の様子については、高橋先生のブログでも度々紹介しているので、あっこさまも御存じのところですが、当時、教育研究の最先端?を走っていた私にとって、にわかに受け入れられるものではありませんでした。

それを可能にして、「がんと付き合いながら生きていく」と思わせたものは、
①家族や周囲の思いやり
②リツキサンの保険適用。(それまでは、1アンプル数十万円していました!)
③医師団の手厚い看護(そのうち、1人は、私の教え子、また、主治医の指導教官は、私の教え子の保護者でした!)
さらに、担当看護師は、現在、別の通院でもお世話になっています!
こういう、様々な「幸運」に恵まれたことが大きかったです。

まさに、「不幸中の幸い」でした。
こういう「不幸中の幸い」を、当然、脳脊髄液減少症の患者さまも享受すべきだと思っています。
それが、私が本症の周知活動に微力ながら御協力したいモチベーションになっています。


ここまで。

あきちゃん先生とは、長いお付き合いをさせていただいているような気が私は勝手にしておりますが、
最近からブログを読んでくださっています方の中にはご存知でない方もおられるかもしれません。
あきちゃん先生が、脳脊髄液減少症の周知活動に協力してくださっています経緯も今回は
紹介させていただきました。

あきちゃん先生は、天寿ガンを全うされることだと思います。
あきちゃん先生の言葉や考え方に、病との向き合い方のヒントも沢山あるようにいつも感じています。

病に垣根はない・・それをあきちゃん先生は体現してくださっているように思います。
ご自身の病のことだけでなく、どんな病であっても、この病には保険が適用、これは適用外、しかも適用されない背景に社会的理由があることも深く理解してくださって、おかしいことにおかしいと向き合って下さる姿勢に感謝しております。

病は人が生きていく上では避けられないものです。一方、健康でありたいと望む人の気持ちも同じだと思います。
いったん病になって、それと向き合わなければならない時に、病とだけ向き合える環境かどうかは、非常に患者への
心的負担や経済への負担に関わってきます。

一日でも早く、脳脊髄液減少症の患者が病とだけ向き合い、周囲の理解を得られる環境になるよう
そして、願わくば早期の治療の元完治することを願わずにはいられません。

尺取虫になって歩む

ゴールデンウィークですね。義理の両親と義理の弟ファミリーを誘って大家族で小旅行してきます!

それでは、あきちゃん先生のコメントをご紹介します!


さて本題。
(以下、引用)

日々、大学で若い学生たちを相手に過ごしていると、「達成すべき目標」も大事だが、「進むべき方向」をまず決めることが大切だよ、と声をかけずにはいられません。

達成すべき方向とは、いわゆる「成功」でしょう。進むべき方向とは「生き方」です。教育者として伝える大切なことでもあります。
(激しく同意!します。by あきちゃん)

病気になって不安を抱いている人にも、私は同じことを言います。
進むべき方向を決め、足場を定めて一歩一歩確実に前進するものといえば、私は、まず尺取虫を思い浮かべます。

この尺取虫を、がんにたとえた研究者がいます。癌研究会癌研究所所長、国立がんセンター所長を歴任した中原和郎です。中原は、「尺取虫とは自分のオリジナルポイントを定めてから後ろの吸盤を前に動かし、そこで固定して前部の足を前に進める。かくていつも自分のオリジナリティーを失わないで済む。」としがん細胞もそのように生きていく、と言ったのです。
 つまり自分の生きる役割や使命感を問う作業は、尺取虫でもがんでも、生きる基軸ちなるオリジナルポイントを定める作業なのです。
尺取虫になって歩みましょう」
尺取虫の生き方は、いたずらに遠くの先にある光を目指すのではなく、足下を照らす懐中電灯を持ち、確実に進む生き方です。
先のことを考えたら希望を失いがちな状況であればこそ、足下をしっかり見つめて今日という日を生きる知恵を学びましょう。
(以上)

ここで、感心するのが、樋野先生は、患者に「尺取虫のような、生きる役割や使命感」を問いながらも、がんにも同じ強さを認めているということです。

病気にかかると、病気を誤解したり、甘く見たりして、ひどい目にあったり、場合によっては、取り返しのつかない事態を招くようなことにもなりかねません。

尺取虫のような自分をわきまえた慎重な生き方で、軽挙はくれぐれも慎まなければと、考えさせられた一節でした。


ここまで。

『達成すべき方向とは、いわゆる「成功」でしょう。進むべき方向とは「生き方」です。』

私もとても同感します。

「生き方」を知ることはできているようで難しいと思います。
経験が大きくその人の生き方を左右するとも思いますし、
そこから何を学び選ぶかもとても大切だと思います。

尺取虫は、その可愛らしい姿に見つけるとずっと見てしまいたくなります。
前に前にと一生懸命少しずつ進む姿に、何か学ぶものもあるかもしれません。
後ろを振り返らず、今そのときを一生懸命前を向いてい姿は、健気ですし、
その小ささから強さとは程遠いように思えますが、実はとても強い生き物
なのかもしれません。

小さいことでも前に前にいくと、随分遠くにきたものだ・・
うさぎとかめの話とも通じますね

様々な例をあげて、病の人を励まそうとしてくださる樋野先生の優しさが
文章から伝わってくるようにも思いました。

あきちゃん先生、ブログをのそいてくださった皆様、
どうぞ良いゴールデンウィークをお過ごしください!
プロフィール

Author:あっこ&かーこ
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