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偉大なるお節介

今日は、関東はとても天気がよいです。しかし、風が強いのがすこし心配です。身支度を整えて今年も艶やかに咲きほこる桜をもう少し長くみたいな・・と思います。それでは、またあきちゃん先生のコメントを紹介します。


さて、本題です。
連続して、順天堂大学教授 樋野興夫先生のご著書「いい覚悟で生きる」(小学館)から、ご紹介しています。

(以下、引用)
余計なお節介と、偉大なるお節介は、同じように見えるかもしれませんが、相手に必要に共感することが、「偉大なるお節介」で、自分の気持ちで相手に接するのが「余計なお節介」です。
私は、偉大なるお節介を世の中に蔓延させるために、「偉大なるお節介症候群」の認定書というのを発行しています。

その項目は、学生には人生の指針となり、がん哲学外来カフェのスタッフをはじめとする大人には立ち止まって考える反省材料となり、がん患者さんには、励ましの言葉となっています。

1 役割意識&使命感を持つ
2 練られた品性&綽綽たる余裕
3 賢明な寛容さ
4 実例と実行
5 世の流行り廃りに一喜一憂せず、あくせくしない態度
6 軽やかに、そしてものを楽しむ。自らの強みを基盤とする。
7 新しいことにも、自分の知らないことにも謙虚で、常に前に向かって努力する。
8 行いの美しい人
9 冗談を実行する力
10 ユーモアに溢れ、心優しく、俯瞰的な大局観のある人物
(以上、引用終わり)

私は、4月から「新規採用教員指導」という役職に就くにあたって、もう一度「教職とは何か?」を考え直しています。

この十項目に照らし合わせて考えてみると、教職という仕事は、まさに、「偉大なるお節介の具現化」を目指すべき職業と言えるような気がします。この十項目を指導していけば、新規採用の一年間を充実させてあげられるのかなと思います。


ここまで。

ご自身の職業に誇りを持てるのは素晴らしいことですね。あきちゃん先生のお言葉から、それがいつも伝わってきます。自信と誇りと愛情と生徒への共感=「偉大なるお節介」があるからこそ、仕事が大好きで、教職を「偉大なるお節介」を具現化できる職業だと言い切れるのだとも思いました。

ものを作る人なら、そのものを使う人が喜んで使ってもらえるものを、芸術家なら、芸術をとおしてそれに触れた人の心が揺さぶられるものを創造すること、家庭の主婦であるなら、日々の生活の中で家族が心地よい環境を作ることが「偉大なるお節介」なのかもしれません。

そして、「偉大なるお節介」は、相手を喜ばすだけではなく、間違いなく自分の心も喜んでいるような気がします。

病気から話はすこしそれましたが、どんな境遇であろうと、誰かと何かを共感するという感覚は、新鮮で神聖な気がします。共感できる部分が行為でも、考えでも、美しく輝いたものであれば、本当に素敵だなと思います。
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自分を見ないという生き方


それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!


今回は、樋野先生ご自身が、ある言葉を引用なさっています。

本題です。(以下、引用。)

私は、1972年ローマ教皇パウロ6世により、ヴァチカンの黙想指導に招かれたモーリス・ズンデル司教の言葉を思い浮かべます。
「自分を放っておくこと、自分に構わないこと、自分を改善するためにでさえ自分を眺めないことである。」
この言葉の中に生きるヒントがあります。

病気になってしまったことをはじめ、自分ではコントロールできないことが人生にはたくさんあります。そんなことに一喜一憂していても意味はありません。だから、悩みを抱える自分のことは放っておくのです。これまで、自分のことを人生の8割考えていたのなら、それを4割にすれば、その分、他者について考える時間を増やすことができるのではないでしょうか。

70歳の男性。(以下、男性)
「死を待つばかりの私ですが、こんな私にもできることはあるのでしょうか。」
樋野先生(以下、樋野)
「お孫さんに内村鑑三野の本『代表的な日本人』をプレゼントしたらいかがですか。
男性:「ああ、それはいい。そうします。」
樋野:「自分を見ないという生き方もありますよ。」

がんの痛みや死に向かう不安今おかれている自分のことを構わず、いっそのこと放っておくのです。その間、孫や家族、あるいは日々接している医療スタッフに思いをはせてみる。相手に対して何ができるという大それたことではなく、思いを寄せるだけでも気持ちがやわらぐはずです。

男性:「先生、人は言葉でこんなにも癒されるのですね。」

実際に孫がその本を読むのはずっとあとのことでしょう。でも、祖父が死の床からも最後のプレゼントしたことは、孫の心にずっと刻み込まれていくことでしょう。

人は最後まで使命感とともに生きるという、最高の生き方を示すお手本でもあるのですから。


ここまで。

自分をみない生き方、少し視点を変える生き方は自分を楽にすることがあるのかもしれませんね。


かーこの病が辛い時、友人は一生懸命署名を集めてくれたり、心配して優しい言葉をくれたりしてくれました。
家事や育児、仕事で忙しい友達もいましたし、また、ご自身も大変なお体であるにも関わらず、沢山励まして勇気づけて友人もいました。


皆さん、他利の精神のもと優しくしてくださったことを今でも感謝していますし、この先もきっと忘れることはできません。

病の時には自分のことで精一杯かもしれません。
しかし、そんな時でも少しだけ誰かのために、もしくは、近しい人に何かできることはないかな・・と視点を変えることは自分の苦境を忘れることができたり、気持ちが和らぐことになるかもしれませんね。

まずは、出会う人や家族のために、自分ができる最善のことは何か・・と考えることから私もスタートしたいです!


マイナス×マイナス=プラス

それでは、早速あきちゃん先生のコメントを紹介します!

以下、引用)
苦しい時こそ、明るく元気な人からプラスの力をもらいたい
と思うかもしれません。しかし、この組み合わせは、
明るく元気な人までつらくさせます。
残念なことに、プラスの人はマイナスの人を
さりげなく避ける傾向にある、という印象を私は持っています。

しかし、マイナスを「悲しみを知った人」とするならば、
マイナス×マイナス=プラスに転じます。

病気に限らず、自分ではあらがえない
悲しみを知った人たちが出会うと
元気になる場面を私はずいぶん見てきました。

そのひとつが、岡山県の国立療養所長島愛生園に招かれて開催した、
がん哲学外来カフェでの出来事です。

「らい予防法」という法律のもと、
患者は強制的に療養所に収容、隔離されてしまったのです。
そして、長年にわたり、患者さんと家族はいわれのない
偏見や差別を受けてきた歴史があります。

今もある偏見・差別のために様々な苦痛を強いられて、
現在に至っています。

当日は、入所者のほかに、一般の来場者も多く、
他県からの参加もあり、さらに驚いたのは、
不登校経験者が5人もいたことです。

共に辛苦の中で偏見を持たれ、深い悲しみを知る人々ですが、
初対面でも和気あいあいです。
特に若い彼らは、ハンセン病の後遺症に加え、
今はがんになった高齢の入所者から話を聞き、
また自分たちの事情や気持ちを話すとうんうん、
そうかそうかと聞いてもらえて慰められたといいます。
それだけの対話ですが、自分たちの居場所が
ここにはあると思えたようです。
共に生きる使命を感じていたでしょう。
(以上)

私も、公民の授業では、必ず「ハンセン病」を
「人権の尊重」の単元の中で扱います。

子どもたちのほとんどは、
「ハンセン病」そのものの知識がほとんどありませんから、
まず、NHKで放映された「にんげんドキュメント」のVTRを見せます。
そして、ハンセン病の歴史や小泉首相の謝罪会見から
現在に至るまでを知らせて、感想文を書かせるという流れです。

「にんげんドキュメント」では、栗生楽泉園に隔離された
桜井哲夫さんの生活の様子が描かれています。
津軽の裕福なリンゴ農家に生まれた彼が、なぜ、
「長峰利造」という本名を名乗れないのか?
桜井さんを世話する在日朝鮮人3世の金正美さんは、
どういう気持なのか? 
一方の桜井さんは、金さんのことをどう思っているのか?

子どもたちは、それこそ、まばたきもそこそこに、
VTRに食い入ります。そして、そのあとは、
本当に、鉛筆が紙の上を走る音が聞こえるぐらい真剣に、
集中して意見文に取り組んでくれます。
社会の授業をしていて、
「マイナス×マイナス=プラス」を私が実感する瞬間です。

私が脳脊髄液減少症の周知活動に取り組まなければいけないと
思った理由も、もちろん、私自身の障害と関係ありますが、
それは、同情とか悲しみとか、そういう次元のものではないと
自分では思っています。



ここまで。


マイナス×マイナス=プラスとは、素敵な表現ですね。
自分に活力がないとき、押され続けたりすると苦しくなったり、
反対に、そういう時にだれかがだまってそっとそばにいるだけで、
自分を充電することができたり、時と場合によって求める対象が変わって
くることはあります。

出会うべき人には、絶妙のタイミングで出会うと聞いたことがあります。

その時その時に出会う人を大切にすることはいまその時を大切に過ごす
ことにもつながり、素敵なことだと思います。

マイナスとかプラスという言葉は、実はあまり好きではありません。
何がマイナスで何がプラスかはそれぞれの価値観の問題でもありますし、
一見マイナスのように思われることも実はプラスの出来事だったということは
沢山あります。

ただ、樋野先生がおっしゃるようにマイナス=「悲しみを知った人」とい
言い換えるなら、確かにマイナス×マイナス=プラスは、とても深い
お言葉に聞こえます。

修正できない過去をみてとどまり苦しむより、
あきちゃん先生が紹介してくださった、
「赤毛のアン」の中の言葉である

”Tomorrow is always fresh with no mistakes in it.”

「今日がいくらだめな日だったとしても、
明日をどんな日にするかは、自分自身にかかっているのですよね。」

という明るい気持ちで、自分を信じて今がダメでも
明日上書き修正してみせる!・・という気持ちを
私も持ちつづけたいです。

許しあう

あきちゃん先生のコメントより。

「病気ではあるけれど、病人ではない。」
と自分自身を思っています。
さらに、病気から、身体障害者手帳を得る身となりました。
病気なら治りますが、障害は、治ることはないのです。
ならば、「自分ができることをする」ということに意識を持っていかないと、毎日の生活、大袈裟にいうと人生が、とてもつまらないものになってしまうと考えるのです。


一旦ここまで。

あきちゃん先生からおすすめされました本を読み終えて、まさに、
山極勝三郎先生も、当時では不治の病と言われた肺結核を
患いながらも「自分のできることをし続けた」偉人だと
思いました。

もちろん、病により自分が情熱を注いでいた事ができなくなること
もありますが、そんな中でもベクトルを変えて
「今の自分ができること」を意識してみる、
考えてみることは良いことのように思いました。

それでは、あきちゃん先生のコメントを続けます。

樋野先生のお言葉を紹介します。
(以下、引用)

思い出は甘く、美しく、いいものばかりとは限りません。
中には、思い出したくもない、いやなものもたくさん
あるでしょう。
そういう思い出の中でもっとも気にかかるのは、
人間関係にまつわることのようです。

病床で思い出をたぐる作業が、
自分の問題に立ち向かう勇気をもたらしてくれるのです。

大病になったとき、患者さんが抱える悩みは、
病人としての悩みではなく、人間としての悩みです。
謝りたいのに謝れない苦しさ、
許したいのに許せない苦しさ、
心の奥底でくすぶっていた罪悪感や
うらみつらみから自分を解放するには、
「許しあう」しかありません。

このチャンスを逃してはならないのです。

この課題を果たすことが
「今の自分がなすべきこと」となって、
患者さんに使命感を育みます。(以上)


一旦ここまで。

「許し」ということは、簡単なようで本当に難しいと
思います。家族への許しとなると、ハードルは低いようで
実は高いかもしれません。

両親との関係、配偶者との関係、友人との関係、
仕事での関係、事故にあった場合などは加害者への憎しみなど・・
人それぞれ許せないと思うことはあるかもしれません。

ただ、よく言われていることは、
許すことで実は一番楽になるのは「自分」のようです。

そして、樋野先生がおっしゃるように「病」をきっかけに、
長いあいだ反目していた関係への「許し」がなされたならば、
自分だけでなく、相手にとっても大きなプレゼントに
なると思います。

それでは、あきちゃん先生のコメントを続けます。



この辺(前述の許しに関する件)は、
私がかじっている「アドラー心理学」と完全に一致しています。
いわく。「人間の悩みは、すべて、人間関係の悩みである。」
いわく。「こうすることは、自分の利益ばかりでなく、
相手のためにもなるだろうか。」
「こうすることは、自分と相手の利益になるが、
それはもっと大きな共同体にとってはどうだろうか。」と、
より大きな共同体のためになる方向を選択することである。
アドラーは、これを「共同体感覚」とよんでいます。

私は、共同体感覚が発達した人間に成長したいです。
「まだまだ」です。私の「永遠の課題」です。

でも、この「まだまだ」があるから、
人間は成長できると思うのです。

アドラーは、この「まだ、まだ」を「劣等感」と名付けました。
このあまりにも有名な「劣等感」という熟語は、
実はアドラーが名付け親だと知らない人も多いでしょう。笑

そして、アドラーは、
「劣等感こそが、人間が成長できる根源である。」
とのべています。

前述した、「謙虚に自分を振り返る(樋野先生)」ともつながると思います。
「病床に伏す」という「ピンチ」を、
「謙虚に自分を振り返る」という
「チャンスに置き換える」ことができたら、
こんなに素晴らしいことはないですよね。


ここまで。

劣等感とはそういうことだったのですね!
「劣等感」=「まだ、まだ」ならば、私も劣等感の
塊ですし、劣等感にマイナスのイメージを持たなくても
良い気がしました。

そして、共同体感覚が発達した人間・・
時間をかけて私もなっていければといいなと
思います。

「ふつうの覚悟」でなくて「いい覚悟」

それでは、あきちゃん先生のコメントをご紹介します!

がんや病気と向き合う「ふつうの覚悟」ではなく、
自分の役割意識と使命感を持って生きる決意、
それが「いい覚悟」です。

一般には、がんなのだから、病気なのだから、
その事実をしっかり受け止めて、
病気とともに生きる覚悟をしなさい、
ということだと思うでしょう。

でも、それは、「普通の覚悟」でしかありません。

「いい覚悟」とは、主人公は病気ではなく、
あなた自身が人として成長していくために持つものです。

「自分の人生に期待ばかりしている」あなたは、
「人生から期待されている」にもかかわらず
気づかずにいるのです。

これまでの人生に期待するばかりだったとしたら、
これからの自分は人生から何を期待されているのかを、
ぜひ謙虚な気持ちになって問うてみてください。

今の自分にはどんな役割が与えられているのか、
他人のために使える能力は、何か残っていないのか。
病気の自分を病人としてではなく、
ありのままのあなたとして生きる使命感を見つけたならば、
必ず「その人らしいものが発動」してきます。
他者に関心を持ち、人とつながることで
人としての成長を続ける「いい覚悟」が芽生え、
付きまとう苦悩を少しずつ忘れることができるはずです。
(以上)



ここまで。

この章のこの部分は私が本当に強く共感した部分です。
自分が自分の人生の主体となる。
起こってしまったことに翻弄されるのではなく、
起こってしまったことを客体として、
自分がそんな中、如何に振舞うことができるのか・・という
人生の中で最難関事項が問われているようにも思えるのです。

最近感銘を受けた方のURLを添付します。
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm

彼は生まれながら障がいをもちながらも、
自分のできることを自分なりの視点で伝えようとしています。
また、小児科医としてもご活躍されているようです。

どんな状況であれ、人は輝くことができるのだと思います。

過酷な状況であればあるほど、その中で自分を輝かすことが
できたなら本当に素晴らしいことだと思います。

かーこが辛い時、過酷な経験をされた方から、
そっと優しい言葉をかけていただけたこと・・
そういう言葉に救われたことは幾度となくあります。
その方の輝きを垣間見ることができました。

死というものはいつやってくるかわかりません。
余命(というものが仮にあったとしたら)を宣告されながらも、
それを幾度となく更新しているあきちゃん先生の
お言葉の、

「これからの自分は、人生から何を期待されているのか。」
を考えながら、若い先生方の育成を、
生徒たちの活躍を通しながら
目指して行きたいと考えています。」


というお言葉にも高貴なものを感じてしまいます。

私も、今の自分ができることを一生懸命
していこうと思います。

暇げな風貌と30秒の静思を

今回より、タイトルを「いい覚悟で生きる」樋野先生の
言葉の処方箋の言葉にします!
それでは、あきちゃん先生のコメントより。

本題です。

(以下、引用)
「暇げな風貌と30秒の静思を」
これは、患者さんよりは、そのご家族、
そしてがん哲学外来のスタッフや医療者に
より気づきのある言葉なのかもしれません。

30秒という間は、慣れない人にとっては
思いのほか長く感じると思います。
沈黙に耐えられず、話しだす人もいます。

その段階ではまだ本音の対話には至りません。
沈黙をともに過ごせるというの、
相手に無用の遠慮をしないですむ
信頼関係があってこそだからです。

忙しそうにしている人間には、
人は心を開かないでしょう。
自分の脇を甘くして、相手につけ入るすきを与え、
懐の深さを示す、これが私の心構えです。

「言葉の処方箋」を30秒間、
お題目のように唱えることで、
病気の不安などネガティブになる気持ちを
30秒遅らせるのです。

もうひとつ、30秒の使い道があります。
集中力に欠ける時や、やるべきことが手につかないとき、
30秒がまんして続けてみてください。
30秒続けば、その先は必ず楽になります。
試してみてください。
(以上)




ここまで。


沈黙にも色々あると思います。

特に女性はお話好きな人が多いので、沈黙をマイナスに
思い、何か話さないといけないように思うかもしれません。

ただ悩み相談などには、ただ聞いて欲しいだけで
答えを求めていない事や、答えはすでに本人が
もっている場合が多く、それに対してはあたたかい
笑顔でうんうんと頷くほうが急いで答えを出すよりずっと
相手を安心させるようにも思います。

何かを話さなくてもただいるだけで安心する存在は
素敵ですね。

あきちゃん先生の生徒からの「先生の笑顔が可愛い!」
というお言葉には、あきちゃん先生の
お人柄というか、生徒が安心して授業を
受けることができた様子が伺えます。

安心感がないところでは、人は緊張を強いられます。
緊張するというのは、交感神経が活発になり、
患者の皆さんにとっては良いはずがありません。
(リラックスするときにでる)副交感神経を
活発にさせてこそ病も快方に向かう気がします。

病気の時などはとくに治療は辛いですので、
それ以外のことでイライラする環境から
できるだけ遠ざかることが大切かもしれません・・・。

私も仕事をしていてよく感じるのは
忙しい人にはものを尋ねにくく近づきにくい
ということです。

忙しさを周りに見せない暇げな風貌の中に、
人は安心感をいだきますし、何かを尋ねたりできる
のかもしれませんね・・。

そして、嫌だな~やりたくないな~でもやらないと
いけないことも、30秒我慢して続けてみる。

これと似たことで、思いつきましたことをご紹介します!

24時間テレビで以前マラソンを走っていた
ある弁護士さんのお言葉です。


走っていてどうしても辛くなったら、次の電柱までを
目標にしたら、完走できた・・という言葉でした。

遠すぎる目標はすぐに諦めそうになりますが、
頑張れば届く目標を小出しに設定し継続することで
振り返れば大きなことができていたということは
よくあることだと思います。

今日一回はだれかに「ありがとう」を言う・・
そういうことでも良いと思います。
小さな設定を少しずつ達成できると
いいな・・とも思います。

いい覚悟でいきる 8

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介します!

さて、今回は、「いい覚悟で生きる」の中で紹介されている「日本の病理学の父」山極勝三郎教授についてご紹介したいと思います。

『栄光なき天才たち』(集英社コミック文庫)
『まぼろしのノーベル賞 山極勝三郎の生涯』(神田愛子著、国土社)
山極教授は、例の「脚気論争」に関して、「脚気病論」も著しているんですね。読んでみたくなりました!

「まぼろしのノーベル賞 山極勝三郎の生涯」は、
http://www.kokudosha.co.jp/search/info.php?isbn=9784337331136
第60回産経児童出版文化賞の産経新聞社賞を受賞したなかなかの児童書です。


幻のノーベル賞とは、世界で初めて、人工がんの培養に成功した業績をさします。
しかし、「ウサギの耳にコールタールを塗布する」という彼の研究は、競争者はおろか、同じ研究室の同僚からも揶揄されていたのです。

なんだか、脳脊髄液減少症の現状に酷似していませんか?
新しい研究というのは、特に、日本では、何かしらの横やりが必ず入ります。
私が本症の講演会を初めて市で立案した時も、教育委員会からクレーム?を頂いたくらいですから…

髙橋先生ら、本症を先進的に研究なさっている方々に、大きなエールを送るべきと思っています。
そして、そういうエールが、悪性腫瘍をはじめ、肝炎にしても、HIVにしても、ハンセン病にしても…「患者の権利」を勝ち取ることにつながったのだと思います。

脳脊髄液減少症の保険適用(周知・広報)運動も、歴史に学ぶべきです。


一旦ここまで・・また後に続きます。

脚気論争についてはかなり前ですが私がブログで記事にしています。

http://akkokako.blog99.fc2.com/blog-entry-221.html

HIVについても、過去の記事で川田龍平先生の著書をもとに、
思うところを述べています。

http://akkokako.blog99.fc2.com/blog-entry-272.html


ハンセン病についても、過去の記事にしています。

http://akkokako.blog99.fc2.com/blog-entry-165.html

ハンセンについては、私なりに不勉強でZIIZIIさんと出会うまで
知らないことが多かったので、その後勉強いたしました。
もちろん、経験者のお言葉がなによりなので、リンクされています
ZIIZIIさんのブログを読むことが一番の勉強になりますが・・。

ハンセン病に関しては、医学会だけでなく、
日本の政府が患者にした卑劣な政策に驚くとともに、
今でも故郷に帰ることのできない人々、
骨になっても故郷に帰ることができない人々がいること、
生きている方々でも平均年齢が80歳を超えて
しまっていることなど、知らないではすまされない差別の歴史があり、
生き証人が少なくなりつつある今、私たちはこういう歴史こそ
風化させないことが、これから同じ過ちを繰り返さないことに
つながると感じています。

それでは、あきちゃん先生の記事の続きです。

今日の授業でのことです。
私:「それで、朝鮮出兵に失敗した秀吉は、やがて、どうなったと思う?」
生徒A「死にました~」
ほかの生徒から失笑を買いました。

ここで、若い教師なら、
「お前、ふざけてんじゃないぞ!」などと、一喝するところです。

私は、
「大正解!」「人は皆、いつかは死ぬんだよね。でも、人は、どう死んだかが問題なんだよ、いつ、いかなる場合でも。」
生徒たちは、とたんに静まって、しばし沈黙が続きます。

「死」について、こんなに冷静に語れるようになったのも、私が、5年に一遍、「余命宣告」を受けているからだと思います。

さて、本題です。

「まさか自分ががんになり、余命宣告を受けるとは夢にも思いませんでした。」
がん哲学外来にくる患者さんのほとんどがそう言います。
(私こと、あきちゃんもそうでした。)
「希望を捨てずに頑張りましょう」と周囲の人たちは声をかけたそうです。
その言葉は患者さんにとって、あまりにも残酷に響き、かろうじて張りつめていた細い糸を断たれた思いがしたそうです。

「それでも、あなたには、死ぬという大切な仕事が残ってますよ。」

しばらくの間、その人はうつむいたままでした。
「わかりました。何とか頑張ってみます。」

私も、全身全霊をもって選んだ言葉です。
がんと「向き合う」ことから、がんに自分を「ゆだねる」ことに変えられたとしたら、きっと少しだけ心の深呼吸ができたはずです。

人間は、人生に期待すると簡単に失望するけれども、人生から期待される存在という生き方に変わっていく気づきの瞬間があります。それは、人生の役割、使命感への気づきであり、死ぬ瞬間まで自分を成長させることができるという学びでもあるのです。
間違いなく「いい覚悟で」生きることにつながると私は信じています。
(以上)

この節を読んでいて、私自身の疾病に対する考え方と、非常に近いものを樋野先生のお言葉の端はしに感じました。
そうは、思いませんか? あっこ様

・疾病と「向き合う」ことから、自分を「ゆだねる」という風に考えること。
・期待される存在という生き方に変わっていく気づき。



ここまで・・。

今回は死生観という深いテーマもあります。
患者さんから死んだほうがましという言葉をきいたことがあります。
死を選択してしまった患者さんもいます。

しかし、「死」は自分で選択するべきものではないというのが
私の揺るぎない考えです。
最期の最期まで、神様にのみ「死」をゆだねるべきだと
わたしは思います。いかに生きるか・・
どんな困難な状況にいようが、その状況のもと
自分は生きることを選択した素晴らしい人物だと
裏返せば言えるとも思います。

あきちゃん先生の疾病に対する考え方と、樋野先生のお言葉の端はしに
共通するものを私も感じています。
私も、実は近い考えを持っているように思います。

何かを自分が期待しますと裏切られると腹がたちますが、
自分が自分自身に期待しますと、少なくとも裏切られることは
自分にしかないのです。

人生に期待しますと、他者と比較したりして
裏切られたと感じるかもしれませんが、
自分が自分の人生に期待して誰かと比較しなければ、
期待を裏切るのも裏切らないのも自分です。

今日一日、だれかに笑顔で接しよう。恨み言をいうのを
やめよう。今日一日、小さなことに感謝しよう。

病の時は行動が制限されますから、自分がたてた自分なりの
目標を裏切らないように過ごしてみるのも自分の人生を裏切らない
ことになるように思います。

いい覚悟でいきる 7

それでは、あきちゃん先生のコメントを紹介
します!

重大な病を宣告されると、人はほぼ例外なく、
心が砕け、幼い子どものように
聞き分けがなくなるのです。
医師の誠実な説明にも、心ここにあらず、
いわゆる「セカンドオピニオン・ショッピング」が始まります。

いまどき「セカンドオピニオン」は、ごく当たり前のことですが、
どこへ行っても同じ診断・同じ治療方針だとしても、
それに納得しようとせず、ついには民間療法に頼ろうとさえします。

かく言う私(あきちゃん)も、いかがわしい秘薬?
やお祓いの類まで勧められたりもしました!
しっかりDrと相談して、事なきを得ましたが…笑

「納得できない」患者さんは、裏を返せば、
「自分では決められない」不安を抱える患者さんでも
あります。聞き分けのない小児と同じです。

泣きわめく子どもをなだめるとき、
どんな方法がもっとも有効かというと、
それは愛で包み込むしかありません。
母親なら、ただ抱きしめてやるでしょう。
しばらくすると、子どもは、泣きやみます。
愛を感じるからです。

砕けてる心の患者さんも
それと同じことなのです。
さすがに、抱きしめてあげることはできません。
ただ黙って話を聞くのです。
相手の話す内容が、混乱したり
矛盾したりしていても、否定せずに、
最後まで聞き続けます。
そして、患者さんが悩みから抜け出すきっかけとして、
「砕けたる心、小児のごとき心、有のままの心」ですよと
返すのです。

人は、がんや病気をきっかけに
死というものを身近に感じると、
今日・明日を「いかにして生きるか」という
哲学的な命題と向き合うようになります。
人間には、そういう誠実なところがあるのです。
患者さんや家族の方が必要としているものは、
いかにして生きるかという「生きる基軸」です。(以上)


ここまで

ところで、セカンドオピニオンショッピングに関しては、
脳脊髄液減少症は病名を求めて・・という
これまた特殊な病であった(ある?)と
思います。

過去の患者さんであればあるほど、病名を
求めるまでの期間が長く、その間、「異常なし」
という診断のもとドクハラに苦しんだという話も聞きます。

ブラッドパッチ治療が先進医療になってから
医療現場も変わってきているとは思いますが、患者の
ニーズを満たしているかといえば、保険適用で
治療が受けられないなど、まだまだであると思います。

当時を思い返すと、かーこも高橋先生に出会う前の
半年以上、異常なしの診断の後ドクターショッピングを
繰り返しました。交通事故が絡んでいるため、医師から
受けたひどい言葉により医療に見切りをつけました。
針などの療法に切り替えたのちも、凄まじいほどの
肉体的苦痛にうちのめされ、良くならないので
お祓いも行きました。

なので、病名に納得ができない(納得したくない・・)
からセカンドオピニオンを求めて・・というのとは違って、
脳脊髄液減少症は、病名を求めてセカンドオピニオンをという
患者さんが多い(かった?)病だとも思えます。

死と向き合うがんは、生きるということを
真剣に考え、向き合わなければならない病です。

病が深刻であれば深刻なほど、他の病でも
健康ならば当たり前になりがちな「生きる」という命題に
対する答えを求めようとするのだと思います。
色んな本を読み、考え、迷いながら、患者も家族も
朧げに見えてくる自分なりの哲学を見つけ出そうとするの
かもしれません。

「生きる基軸」の有無で、病に対する受け止め方が
変わるとは思いますが、そう簡単に見つけ出せるものでは
ありません。

多くの人が年をとるにつれて大病を患ったりするのも、
生きるということについて向き合うことが
人生における最難題であるからもしれない
と感じています。

人間は弱いものです。
「砕けたる心、小児のごとき心、有のままの心」
辛い時にあたたかく包み込んでほしいと
望むのは幼児だけではないと思います。

いい覚悟でいきる 6

朝の陽光に春を感じます。桜の蕾も
少しずつ身支度をし始めていそうですね・・。

それでは、下記あきちゃん先生のコメントを
ご紹介いたします!


「目下の急務は、ただ忍耐あるのみ。」
これは、日本の病理学の父と言われる
山極勝三郎の言葉です。

深く悩んでいる患者さんに励ましや慰めは不要です。
「すべきことは山積しているでしょうが、
今はただ治療に専念しましょう。耐えましょう。
抗がん剤も日々進歩しています。昔ほど副作用が
きついこともありませんし、よりあなたに合ったものを
医師が選んでくれますよ。今は治療に専念し、会社のことは、
よくなったら考えたらいかがですか。」

すべきことの優先順位がはっきりしている人は、
それ以外のことはどうでもいいと腹をくくれば、
きっと人生楽になると思います。
「いい覚悟」ができると思います。
(以上)

ここが、悪性腫瘍の患者(私も含めて)と
脳脊髄液減少症の患者さまやご家族との違いかな?
とも思うのです。

私が入院する直前に、50mlが20万円以上もする
分子標的薬「リツキサン」が保険適用になり、
また、国の保険や民間の疾病特約保険によって、
入院費の自己負担は、食費だけで済みました。
気軽に?(少なくとも、経済的な不安は全く感ぜずに)、
治療に耐えられた?のです。

保険適用の恩恵を身を以って体験した者です。
だからこそ、脳脊髄液減少症の患者さんも
当然そうなるべきと思って、周知運動に協力しています。


ここまで。

あきちゃん先生には、病は違いますが、ずっと長く
脳脊髄液減少症に心を馳せていただけること、
周知活動を職場や色んな場所でしてくださっていること等、
本当に有難いことだと思い感謝申し上げます。

脳脊髄液減少症の患者は、内部疾患であるために外から
判断されにくいため、周囲からの無理解にさらされてしまい
ます。
徐々に歩けなくなったり寝たきりになることもあります。


一昨年は辛そうに歩いていた・・・
昨年は杖をついて辛そうだった・・
今年は・・寝たきりになり外出も困難になった・・


その時の流れる間に、確かな病名が得られず
壮絶なほどの医療現場や周囲からの無理解に晒されて
心が砕けるほど辛い思いをした患者さんの話を
聞いたこともあります。

これらを無くすためにも、内部疾患の患者がもつ
壮絶な苦しみを想像すること、
そして早期に確定診断されて
治療ができるようにすること、
同じ病になった人が同じような理由で
苦しまないように、周知を徹底することが
とても大切だと思います。

脳脊髄液減少症が色んな理由により
保険適用になっていないこと、
つまり医療現場からの保護が薄いことは、
交通事故がこの病と深く関係することに
大きな要因があり、一筋縄ではいかない
難しい問題があります。

被害者である患者は、この病を患った途端に、
自分の患っている病の背景を理解するのに
時間がかかるかもしれません。事故関連の手続きに
関しては、あまりの理不尽さに憤ることも
あるかもしれません。

交通事故が原因でない患者さんも
もちろん沢山いらっしゃいますので、
適切な医療を受けることが何故できにくいのかを
理解するのが最初は難しいかもしれません。


そういう意味では、脳脊髄液減少症は
優先順位をつけて病だけと向き合うことができにくい
特殊な病だともいえます。

早期発見・早期治療がどんな病でも大切です。
そしてそれとともに、治療中は治療に専念できる
環境であること、周囲の理解があることが大切です。

患者が保険適用のもと安心して治療ができる日が
一日でも早く来ますようにと願わずにはいられません。

いい覚悟でいきる 5

東日本大震災から4年が経過しました。
震災で亡くなった方のご冥福を心より
お祈り申し上げます・・。

あの日から4年・・・
月日の経つのが早いのを感じてしまいます。



それでは、あきちゃん先生のコメントを
ご紹介させていただきます。

私が悪性腫瘍の長期療養で、本当にいやだったのは、
抗がん剤や無味乾燥な病院食ではありません。
それらは、みな「改善への過程」なのですから…

一番恐れていたことは、「社会からの隔絶」です。
退院後、わたしは、家庭や学校で「おミソ」に
なってしまうのではないか…という不安でした。

幸い、入院中から整理券を出す(実際出しました!)くらいの
お見舞客に恵まれ、娘の進路面談にも「動員」されるなど、
その心配は、取り越し苦労に終わりましたが…

本題。
今回は、樋野先生の「リード文」から御紹介します。

「がんに限らず、どんな病気にも、
罪悪感を持たないでください。
一喜一憂するよりも、
自分が何をなすべきか知ることです。」

どん病気でも、その人が悪いから発症するわけでは
ありません。
不摂生が生活習慣病を悪化させるようなことが
あるように、ライフスタイルが発症の遠因になることは
あるでしょうが、それは確率の問題であって、
罪悪感を持つようなことではありません。

人に譲ることに焦りを感じたり、
自分のほうがうまくできると
競争心を持ったりしている間は、
まだ無頓着になっていません。
人に勝ったり負けたりという発想をやめて、
全部人に譲るくらい大胆になってみる。
すると、あとには自分に与えられた役割だけが
残るものだとわたしは思うのです。

私は、四半世紀、学校教育相談の係をやっています。
以前は、「子どもが、学校を休むなんて!」という
スタンスでしたが、今は、「ちょっと休んで、
体調を整えて、また、元気になって
出ておいでよ!」という応対です。


ここまで(今回は本題の他にも長めに紹介させていただきました。)


人間はどこかに帰属していないと
孤独を感じる存在だと思います。
社会に帰属して自己実現のために、あるいは
帰属集団(会社や職場)のために必死で頑張って
きた場所からの隔絶は、孤独とともに、焦燥感を
生み出すのでしょう。

専業主婦であるなら、家族のためと一生懸命
日々家事や育児を頑張ってきたのにも関わらず
それができなくなることは、心地よくいられた
場所からの隔絶を意味し、自分の存在意義を
奪われてしまったように感じるかもしれません。
家事育児は誰かがやらねばならず、それができない
ことへの申し訳なさを感じてしまうとも言えます。

しかし、そういう時こそ、周囲を巻き込んで
頼めるところは頼んで一人で抱え込まないことも
病のときは大切だと思います。
それが、「無頓着に大胆に」という言葉ともつながる
かもしれません。

「ガンに限らず、どんな病でも罪悪感を
持たないでください。
一喜一憂するよりも、
自分が何をなすべきか知ることです」

この言葉が意味することは、病になったら、
今までの自分と同じように生きようとするのではなく、
(そうすることが出来れば、それでも良いのですが)
一旦、脱力して(天にまかせて)みましょう。
罪悪感を持っている間は、必要なものは見えません。
そういう感覚を捨てると、色んなものが削ぎ落とされて
自ずと大切なことが見えてきますよ・・
というようにも取れます。

それは、病になったからこその恩恵かもしれません。

競争社会で、常に誰かと比べて勝ち負けで生きるのは
しんどいことです。自分が喜ぶ生き方、どんな状況であっても
自分ができることをしようとしている方は輝いています。

脳脊髄液減少症を患って、本当に苦しい状況の中、
ガンを患った人たちへWIGを贈りたいと、髪を
のばすことを目標にして、WIGを届けることに成功した
友達がいます。洗髪も辛い病ですから、
長い髪を保ち続けるのは本当に大変だったと思います。

それでも、彼女の心は輝いているように思いました。

病は、あなたの人生のベクトルを少し変えてみたら・・
というサインなのかもしれません。もしそうだとすれば、
恨みや、憎しみ、後悔や自責などの方向へベクトルを
向けるのではなく、削ぎ落とされたあとに残ったものへ
心からの感謝をする、そしてできること・・
笑顔でもいいですから・・心が喜ぶことで
心を満たしていければ素敵だと思います。

最後に、
がんを患いながらも、あきちゃん先生のお人柄も重なって、
入院中も、必要とされていることをご実感されたこと、
多くの卒業生を見送ることができた素敵な先生として
定年退職を迎えることができることは素晴らしことですね。
本当に、お疲れ様でした。

こちらでも、必要としておりますので、今後もよろしく
お願い申し上げます(笑)。

いい覚悟でいきる 4

あきちゃん先生のコメントより~

重大な疾病に罹患すると、これまで順調に
歩んでいると思っていた人生が大きく迂回させられたり、
時にはストップしたりします。
「行くも戻るもままならない、八方塞がりです。」と
言葉をぶつけてきます。

「八方塞がりでも、天は開いていますよ。」
天が開いているということは、天にゆだねましょう
ということでもあります。

事の成否やなりゆきは、人知を超えたところにあるのだから、
どんな結果になろうとも誰も責めない。
というような潔さがこの言葉にはあります。
(以上、樋野先生)

「天にゆだねる。」という感覚は、敬虔なクリスチャンである
あっこ様方には、よくおわかりかと思います。

私は、半年にも及ぶ長期の療養休暇を、
4回も取得しないといけない病状でした。
(正確に言うと、「です。」です。笑)
でも、特に、「自分を責める」ということだけは、
したくないし、してはいけないと思っています。


ここまで~

ちなみに、私は敬虔なクリスチャンではありません!

ただ、「天にゆだねる」という感覚はあります。
運命というものがやはり人にはあると思っていて、抗おうとしても
どうしても抗えないときもあると思います。

そんな時に、自分のできることをした上であとは神様にゆだねる
(天にゆだねる)という感覚があります。

そのときは辛くとも、振り返るとすごく貴重な時間だったと
思えることは実際にあり、時間の経過により人の考え方も変わります。

八方塞がりに見えても天は開いている・・
これは真っ暗な闇に思われるようなことにも光は存在するんだと
言い換えられる気もします。そう信じることで、その最悪な状況に
自分が呑み込まれない気もするんです。

以前、鳥越俊太郎さんが「ガンを患って良かった」と
おっしゃっていました。
ジャーナリストとして、これからガンを取材する時に
これからは、患者と同じ目線から色んなものを
感じ取れるから・・という趣旨のことを話していました。

想像力は経験には勝りません。
経験者の声は本当に響きます。
鳥越さんのそれまでの仕事ぶり等は
存じ上げていなかったのですが、
「がん」により「自分を責めたり」または
「絶望したり」という姿勢とは真逆の、
自分が主体となってその時にしかできないこと、
その時だからこそできること、
一日一日を大切に過ごすことをされているように思います。

また、敬虔なクリスチャンである故三浦綾子先生は、
その生涯の多くを次から次へとおそう病魔と共存して過ごされていました。
そんな中でも、「わたしは神様に愛されているから、このように特別な経験を
させてもらっている」という趣旨のことを仰っていました。

そこにも、わたしは病気という一般的には「暗い色」のように思われる現象に
暗い色付をしない独特の姿勢と視線に感動したことがあります。

あきちゃん先生が4回の療養生活をとって復帰されたこと、
その間、奥様やお子様も心配不安が多かったと思います。
あきちゃん先生も抗がん剤は苦しかったという趣旨のことを
以前おっしゃっていました。未経験の私には想像すら
できません。

その期間(経験)を経て、家族はあきちゃん先生という夫
そして父の存在を、子供たちはあきちゃん先生という先生を
さらに大切に感じることができるのだと私は推測します。

当たり前のものはこの世にはないと思います。
色んな経験値が高い方の心が優しいのは、
経験ということを通して魂を磨くという
生きているからこそできる、またこの世でしか
できない大きな仕事をされているからのようにも
感じます。

長くなりましたが、最後に・・
起こってしまった本意ではない現象(病気や困難)に
呑み込まれず、その現象が辛い時こそ
必ずどこかにそれを突破できる
自分なりの方法があるということを
「八方塞がりでも天は開いていますよ」という
言葉は物語っているように思いました。

いい覚悟でいきる 3 

言葉の処方箋
~心にユーモアを。あなたをもっと大切に。~

以下、あきちゃん先生コメントより

病気が再発して心が折れた方は、自分ではどうしようもない不安を抱えています。
話しながら思い余って涙したり、自分の立場の理不尽さに怒りをぶつけたり、そうかといえば、から元気を出して強がっている人もいます。

そういう人たちにどう言葉をかけるかが難しいのですが、「もっとつらい思いをしている人もいるんですよ。」などという言葉は禁句です。

「沈黙を一緒に過ごす。」=同じ時間を共有することが「対話」になるのです。

対話に欠かせないユーモア。「ユーモアは、ユー・モア。あなたをもっと大切に。」だじゃれではありません。いい言葉だと思います。


~ここまで~

病が長引くにつれて、自分を責めてしまったりすることがあると聞きます。
今までできていたことが、他人の力なくは出来なくなってしまったり・・。

そうした時に、ふとクスっと笑いたくなるようなユーモアを
描けることは実はとても大切なことだと思います。
humor→You more あなたはどんな状況であっても
大切なんです。

もし、他人の力なくしてできなくなったことがあり、
誰かの力をかりるとしたら、
その誰かはあなたがいてくれたからこそ、
病について深く考える機会を与えてもらえますと、
本書にも書かれています。

かーこが一番辛い時、母が高知から私の家にやってきて、
沈んだかーこを大笑いさせようとして、成功したことがあります。

母は上品に笑うタイプではなく、わっはっはっは!と大きな
口をあけて大声で笑うタイプの人です。どの写真をみても
笑顔で、小さい時の写真を見せてもらったのですが、
それも笑い転げているような顔の写真が多かったです。
何がそんなにおかしいのか・・・。と思えるほどです。
私はそんな母が大好きですが、かーこが沈んでいるときに
変わらない姿でかーこに笑わせようとしていたのを
見たときは、ちょっとお母さん・・時と場合を考えてよ・・
と内心思っていました。

でも、いま思いおこすと、それこそが大切なことだったのかも
しれません。凍りつきそうな空気を一変させたように
思えます。

それでも、辛すぎてユーモアをもつのに時間が必要なとき・・
悲しみが深すぎたとき・・そんなときは

あなたを大切に思う気持ちから
あなたを大切に思うからこそ・
そっとだまってそばにいてあげること・・
これも大きな愛なのだと思います。

あなたの中にあるユーモアを大切に。
そして、何よりもあなたを大切に

いい覚悟で生きる 2

いい覚悟で生きる~
あきちゃん先生のコメントをコメント欄でのみ
残しておくのは勿体無いので、紹介いたします。

あきちゃん先生のコメントより(続編)~

「思ったより、全然、元気じゃない?」
この言葉が、長期療養の患者には辛いのです。
「じゃあ、痩せ細って、青白い顔をしていればいいのか!」
と、わかったような言葉の心なさに傷付くのです。

そんな人でも、四六時中、疾病のことを
考えているわけではありません。
そんなときに、親しいひとの顔や音楽、
書物や趣味のことを考えたりしているはずです
こうした思いを反芻して、鼻唄混じりの気分に浸るとき、
これが「心の宴会」です。

旧約聖書にも、「悩んでいる者の日々はことごとく辛く、
心の楽しい人は、常に宴会を持つ。」とあります。

トルストイも、アンナカレーニナの中で、
「幸福な家庭はみな、一様に似通っているが、
不幸な家庭は、皆とりどりに不幸である。」
と言ってますし。

これによって、微笑みを取り戻すことが、
いばらの道を進む原動力となるのです。


ここまで~

そういえば、同じことをかーこが病で苦しんでいた時にいっていました。
「思ったより元気そうじゃない・・?」
この言葉に傷つくと・・。

確かに、健康な人はその言葉に患者さんが傷つくなど
思いもよらないです。
実際私もそうでした。むしろ、元気づけたいがために
発してしまうこともあるかもしれません・・。

「頑張ってね・・」
の言葉にも傷つくというのを聞いたことがあります。
これ以上、何を頑張れば良いのか・・と。

言葉はそういう意味で本当に時と場合によって刃になるので
気をつけて発しないといけません。

私には、忘れられない心の友(故人)がいます。
身体が動かなくなる病気を患いながら、
いつも周りをあたたかい眼差しでみつめ、
笑いを振りまく方でした。

「心の宴会」を常に意識していた
方だったように思います。

どんどん身体が動かなくなる「いばらの道」を歩みながら、
最期まで動く指数本で周りに笑いを与えていました。

あきちゃん先生のご紹介にある、トルストイの
「幸福な家庭はみな、一様に似通っているが、不幸な家庭は、
皆とりどりに不幸である」

笑顔の優しい少年が残忍にも殺され亡くなった
悲しい痛ましい事件と、この言葉は
なぜか結びついていまいます。

また、私もこの本を熟読しあきちゃん先生とともに
感想を紹介したいと思います。

いい覚悟で生きる

関東では冷たい雨が降る3月スタートです。
一歩一歩春が近づいてきているとはいえ、まだまだ厚手のコートが手放せないですね・・。

「いい覚悟でいきる」・・これは、ガンを患いながらも
不屈のあきちゃん先生がおすすめしてくださる本です。

今日のブログは、あきちゃん先生のコメントより引用させていただきます。

以下あきちゃん先生のブログより~

いい覚悟で生きる」は、「がん哲学外来」による「言葉の処方箋」をまとめた書籍です。

したがって、まず、「がん哲学外来」とは何か?を知る必要があります。

国民の二人に一人ががんを宣告される時代です。
人は、がんを宣告されれば、多かれ少なかれ狼狽し、「生と死」について考えます。
一方、医療は、治療に手一杯で、そのような「患者の思い」と「現実」の隙間を埋めるところまで、
手がとても行き届きません。
そこに気づいた順天堂大の樋野興夫教授が作った組織がNPO「がん哲学外来」で、
そこで語られることが「言葉の処方箋」なのです。
「言葉の処方箋」は、がん患者ばかりでなく、すべての疾病の患者様やご家族にも
示唆をあたえるものと思います。



今日のあきちゃん先生のコメントのご紹介ここまで~


突然、自分の人生が闇に閉ざされた気分になるようなこと・・
これは病を突きつけられたときもそうなのかもしれません・・
治らない可能性がある病・・死と向き合う可能性のある病
であればあるほど向き合う闇の深さは深いかもしれません。

ただ、そんな中で樋野教授により紹介されている「言葉の処方箋」は
病は違えど、すべての患者さんにとっての何かしらの
ケアとなるように私も思います。

私は、かーこが闘病中一番気をつけていた事があります。
それは、マイナスの言葉を言わないということでした。

人は元気なときでさえ、マイナスの言葉をかけられ続けれると
心身が衰弱する可能性が高くなると思います。また、
映像でも、凶悪な映像を度々見せられたときの心身のストレスは
甚大なようです。

その反面、プラスの言葉がけはその人の周囲の空気感をあたたかい
ものに変える魔法があるようにも思います。

あきちゃん先生は、ご自身がガンと共に生きて、まるごと
ご自身を受け入れておられます。コメントの中でも、ご教授いただける
多くのことに感謝しています。

今後も、私たちのブログで「いい覚悟で生きる」の書の
内容をご紹介してくださるようですので楽しみにしています。

私の手元にも本が届きましたのでさっそく読んでみます。
プロフィール

あっこ&かーこ

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