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お医者様へ

今朝、私と同じ脳脊髄液減少症の
るみさんから電話があった。
るみさんも私と同じ交通事故が原因で
この病気を患った。
数日前から体調不良がひどくなり
呼吸ができなくなって、
現在入院しているみたい・・・。
るみさんは、車椅子で、
私よりずっと大変なお体なのに、
自分にできる人の為になることをやりたいと
そして、この病気を皆に知ってもらいたいと言って
啓蒙活動や同病の患者を励まして
頑張って下さっている。

私にも色んなことをアドバイスしてくれ、
本当にお優しいお姉さまという感じだ。

るみさんはこの病名に辿りつくまで
1年6カ月がかかっている。
もし、お医者様が早く病気に気付いてあげていたら
るみさんはもっと違う人生を歩めたのではないかと
私は今残念でならない。

お医者様って、人の命を扱う尊い仕事だと思う。
だから、社会的にも尊敬されているのだと思う。

けれど、この脳脊髄液減少症という
深刻な病については
多くのお医者様が

「○○学科の立場としては、体に受けた衝撃で
髄液漏れがおこるとは考えられない。」

などといい、
心が髄液漏れという症状をつくりだすという
お医者様もいる。

なんて悲しい病気だろう。

ただ私は、脳脊髄液減少症になっただけ・・・。
どんな病も、なりたくてなった人なんて一人もいない。
けれどもなってしまった以上は、その病を受け入れ、
自分なりの方法で乗り越えていかなければならない
と思っている。

病を抱える患者にとって、
お医者様はすがるような存在だ。
そのお医者様が気付いてくれなければ
脳脊髄液減少症を患った私たちはどうすればいいの・・・?

患者は診断が下らなければ、治療すら受けられない。
訳がわからずただ落ちていくだけだ。

人は誰しも人として心豊かに暮らしていきたい
と願う生き物だと思う。

普通に、
学校に行ったり、
仕事したり、
友人と遊んだり、
家族と戯れたり・・・

普通にできていたことができなくなる病気が
この脳脊髄液減少症という病だ。

私は幸運にも、この病気を理解してくれ
患者に寄り添って下さる
高橋先生というお医者様に辿りつけた。

そして、なんとか自分で生きる機能を回復できる
ギリギリのところで
先生に救って頂くことができた。
今は感謝の言葉も見つからないほど
有難いと思っている。

もし長い間放置されれば
重篤な後遺症や絶え間ない痛みを抱え
人生を歩んでいかなければ
ならなくなってしまったと思う。

私は、自分の経験から、この病気を放置することにより
そうなってしまうことがはっきり理解できる。

どうかどうか、お医者様、お願いです
患者の声にもっともっと耳を傾けて。

お医者様という仕事は、
もっとも尊い人の命を扱う仕事であると同時に
患者の人生やその家族の人生を
大きく左右する仕事である思う。

私は今、この病に光が射し込むための手助けを
微力ながら全力でやっていきたいと思う。
それが、この病気を経験した患者にできることであり、
批判にも負けずに患者の為に尽くして下さっている
お医者様への恩返しと思うから・・・。


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真央ちゃん ガンバレ!

私は、フィギアスケートを必ず
テレビで観る。銀盤を舞う美しい
フィギアスケーターと、その身のこなし
をみると、妖精ってこんな美しさなのでは
ないかと思う。

日本の天才スケーター浅田真央ちゃん
が先日ロシア大会で5位の成績に
終わり、自己ワースト記録を更新した。

実力を出せていないその表情には、
プレッシャーに押しつぶされそうな
痛々しいものを感じる。

不安が自信を押しつぶしているのでは
本来の真央ちゃんではない!と誰もが思う。

気持ち・・メンタルの切り替え・・
これがオリンピックでなくて良かった~
きっと、オリンピックでトップを取るための
試練なのよ!と早くあの素敵な笑顔を
見せてほしい。

不安・・これが心を占めると、表情も
身体も委縮してしまう。脳脊髄液減少症
・・治らないのではないか・・という不安
が心を占めると、治る部分も治らなくなる
のではないか・・・。

反対に、あれも治った、これも治った
と治ったところに注目してみる・・そうすると
心もウキウキしてくる。

トップアスリート、特にオリンピックで
金メダルを取るような選手は、イメージトレーニングで
自分が優勝して表彰台でメダルをかじっている
姿、マラソン選手ならテープを切る姿
その姿をビジュアルでイメージするようだ。

私は、かーこに、パリッとスーツをきて
昔のようにバリバリ仕事をするイメージを
細かくイメージするよう言っている。

治りたいではなく、治った姿を心に
強く描くこと
これをアドバイスしている。

浅田真央選手、19歳のトップフィギアスケーター
スランプを糧にして、壁を乗り越え、表彰台の
一番上であの可愛らしい笑顔を見せてくれる
日がきっとくると信じている。

そして、今頑張っている署名活動
実を結んで良かったね~と、皆で
抱き合いながら喜ぶ姿
をイメージしながら
やっていきたいと思う。

出逢いに感謝を込めて

昨日は、山王病院の通院日でした。
都会の喧噪から離れて、ちびちゃんたちの
お世話をさせてもらいながらのほほんと
生活している私には、ワクワクする
一日がスタートです。

近所にすむ、とっても仲良しの
おばあちゃん(お姑さん)にちびちゃんを
あずけていざ出陣!

私は、かーこの通院より?
ブログ友のおせつさんとピー子ちゃんに
会えることがとっても楽しみでした・・

かーこの体調が以前はきつかったので、
いままでの通院はすべてタクシーだったの
ですが、今回はなんと電車でいけました!!!
すごい進歩。席も空いていて座れて
いけました。ついています!

病院につくと、ご対面。
素敵な女性とかわいらしい女性・・
もしや・・

でも、違うかなぁ・・・・・

やっぱり~!

対面できました。
おせつさん。そして、まず最初に一緒にいたのは
ピー子ちゃんではなく、(もと!)脳脊髄液減少症患者のなつみさんでした!

なつみさんは、高校生のとき脳脊髄液減少症を患い、
見事2回のBPで完治されて、
今、キャンパスライフを楽しんでいる
キラキラ輝く大学生なのです。

カンボジアへボランティアに行かれたり、
スキーの大会で賞をとるなど、
患者の希望の星です。

おせつさんは、イメージ通り楽しくて、頼りがいが
あって、若くて、きれいなお母さんでした。
いつも、いつもとても頑張っているおせつさん。
中学のバザーでの
署名活動とか・・、取材なども
ひきうけて、色んなことを勢力的に
こなしています。
時間の使い方を見習いたいな~
時間はつくるものなんだなぁ・・と
おせつさんをみると思います。

その頑張りが、多くの人に励ましと影響を
あたえています。

おせつさんとは、家族の心構えや、
この病気のこと、署名のこと、活動のこと
色んなお話をできました。

この病気は、完治する人がいる一方
寝たきりになってしまう人もいる・・
人の身体はそれぞれで、しかも
治療までの年月もそれぞれ。
病名にたどり着くまでの辛い日々のこと、
だからこそ、誰もがこの病について
知ってもらいたいこと・・そんなお話を
しました。

 子供の脳脊髄液減少症の冊子
や新聞の記事、そして、おせつさんが考えて
作成を依頼してできた車のステッカー

”ストップ追突!知って欲しい脳脊髄液減少症(←ルビつき)”

をいただきました。

明るく、前向きで、その生き生きした
姿から、とってもプラスのエネルギー
いただきました。

ありがとうございました。

おせつさんと、なつみさんと、かーこと
私ではなしていると、点滴を終えた
ピー子ちゃんが合流しました。

ピー子ちゃん、とっても愛らしい中学生の
女の子でした。この幼い可愛い少女の
身体の中で、いまだ病気が残っているのか・・
と思うと、一日も早く、なっちゃんのように
完治してほしいと思いました。
点滴後つかれてしまっていたのに、
一緒に笑顔でお話をしてくれて
ありがとう

色んなお話の中で、なっちゃんが言っていた、
この病気は、BP治療して、その後できることは
は水分補給と自己免疫力(自然治癒力)を
あげることだから・・とにかく、プラスに
色んな事を考えることって大切!という
ことでした。

治らない部分・・痛いと辛いのですが・・
でもそのことばかり考えるのでなく、
治ったところのことを考え感謝しているほうが
免疫力UPになると思います。これは、
主治医の高橋先生もおっしゃている
ことです。

かーこも、元来とても明るくて快活な性格
ですが、でも、この病気になって
どっかーんと暗くなることもあり、
そうこうしていると、怒りや、悔しさも
こみあげて・・

だから、そういう時こそ、私はストップ
かけないと・・。あれや、これや話したり、
この本読んで・・とかいい本を薦めてみたり、たまには
私自身、落ち込んで・・どうしていいのか
わからなくなることも・・・。

どのような事柄も、受け取る人の
心次第で、プラスにもマイナスにも
なるのなら、きっと、免疫力&治癒力UP
が必要なこの病にはプラス思考が
いいはずだと。

おせつさんと、ピー子ちゃんと、なつみさんと
お別れのときに、
(もと!)脳脊髄液減少症患者のなつみさんに引き続き、
(さらば!)脳脊髄液減少症のピー子ちゃん
(脱!)脳脊髄液減少症のカーコ
になるだろう!! 
と笑いながら話してました。
あのときは、辛かったね~って
笑って話せるときがくると思います。

しばらくすると、かーこにとっては
メインイベント?である診察の時間が来ました。

かーこは高橋先生の診察をうけて
とても優しい高橋先生に癒されたような顔で
私のいる待合室にかえってきました。

握力も 2(パッチ前)15(1度目のパッチ後)20(現在)
だったようです。

仕事に復帰しましたといつかブログで紹介
します!とカーこは先生に伝えてきたようです。

山王病院を出て乃木坂の駅の近くのホテルに
大きな垂れ幕がさがっていました。!
おもわず写メでとりました。

今の心境です。
出逢いに感謝を込めて

知るということ・・・少年の言葉

かーこが脳脊髄液減少症になって、
はじめて、脳脊髄液減少症を知った。

知らないことは、多い。
知らないほうが、楽なこともある。
いいかえると
知ってしまうことが、辛いこともある。

でも、知ることが、意味のあることも多い。
とくに、それが、目をつぶって見ないように
したい現実であったとしても。

アジアやアフリカの悲惨な現実を
テレビで知って、
でも私は“知らない”のと同じ行動を
とってしまっていた。

テレビを見て知ってしまった、
ひどい社会の現実に対して、
胸を痛めることはあっても、
数時間後には、
忘れてしまっていた。

偉そうなことなんて何ひとつ言えない。

かーこが、脳脊髄液減少症にならなかったら、
きっとテレビで脳脊髄液減少症を見ても、
こんな可哀想な病気があるのだ・・・
と思いながら、
でも、数時間後には忘れていたのかもしれない。

偉そうなことなんて、何ひとつ言えない。

こんな鈍感なわたしだから、きっと神様は
知らないことのいくつかを
見せて下さったのだと思う。

脳脊髄液減少症の北海道の少年が、
知ってほしいと実名をあげて語っている。

http://www.youtube.com/watch?v=bFaWImajTy4

自分と同じような思いをさせたくないから・・と

彼は、脳脊髄液減少症を自分の身体で知り、
脳脊髄液減少症がもつ闇を経験し、

そして、そこから踏み出して
世の中に知ってもらうことを
自分の言葉で堂々と話している。

その行動と言葉に尊敬の念を覚える。

チロさんの詩

同じ病気で苦しむ大好きな友人チロさんの詩。
彼女の優しさに私は何度救われたでしょう。
チロさんふつつかな私ですが
いつまでもよろしくお願いします。
そして、チロさんに心からの笑顔が戻る日を
お祈りしています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いついつまでも



『脳脊髄液減少症』

にならなかったら

副作用が出なかったら

今も隣に幸せにいれたでしょうか

幸せな日々を過ごしてたでしょうか

でも現実は長い年月

『脳脊髄液減少症』

で1番身近で体力精神経済的に

苦しめてしまった

1番大好きな人を1番不幸にした

だから死のうとして離婚した事は

けして間違ってないね

貴方は貴方らしく

生きて輝いてるから

狂った頭でしでかした

私の行いは間違ってない

昔以上に人間として尊敬し

男性とし憧れ

貴方が世界一幸せになってほしい

いつか私が亡くなっても

貴方の耳には入らず

どこかではいつくばり生きてると

思っててほしい

記憶障害がひどくなるなら

覚えるうちは生きてたい

忘れてた時点で死だから

貴方に会えて色あせた私の人生は

素敵なパステルカラーの日々でした

祈る事しか出来ないけど

いついつまでも貴方らしく

輝きかっこよく生きてね

私も約束通り生きてると思うから

生きてる限り死んでも

貴方と過ごせた私は世界一幸せでした

ありがとうございました

かーこの日記④

ひき続き脳脊髄液減少患者のために
署名をお願いいたします。記入が埋まらなくても
大丈夫です。よろしくお願いいたします。

脳脊髄液減少症 署名運動

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
退院して今までにない症状が出て苦しんだ。
このままの状態が続いたらどうしようかと
不安でたまらない自分もいたが、
一方でこれも当たり前だと前向きにとらえる自分もいた。

乾いた大地が水を吸ってもすぐには吸収しないように、
突然髄液が流れ始めたといって、
脳がどんどん髄液に浸されるわけでもなく、
その量も増えるわけでもない。

ましてや、
データ的には健康な人の5分の4の髄液が漏れ、
カラカラになっていた私の脳は、
7か月の間に傷ついているわけで、
そこに髄液が流れるわけだから
傷口に塩をすりこむようなものだ。

頭中が焼けるように痛むのも仕方がない。
けれど、大人になってから
痛みのあまり涙が流れるという経験は
初めての経験だった。
頭だけではなく身体のあちこちも
その機能を取り戻すかのように痛み始めた。

夫が一週間で帰ると、
心配した母が交代で東京に来てくれた。
母は、痛みのあまり落ち込む私を笑わそうと
色々話しかけてくれた。

あっこもよく私の手を握りに来てくれた。
その頃の私は
信じられないような不思議な経験を
何度も何度もした。
そして、目に見えない力を信じざるをえなくなった。

身体は相変わらずあちこち痛く辛い日々が続いた。
その上、倦怠感がひどく、少し歩くとぐったりして、
60歳を超える母に

「80歳を超えるお年寄りよりかーこは弱くなったね。」

と言われた(苦笑)。

それから、高橋医師の著書「メンタル強化法」より、
良くなったところを探そうと決めた。

BPが終わって2週間ほどたち、
夜中自分で汗をかいた。しかも、頭と首から・・・。
自律神経がおかしくなり、
熱を発散することができなくなっていた自分の身体が
その機能を取り戻したことを証明するかのように・・・。
嬉しかった。

それに、息が苦しくなく
呼吸の乱れが全くなくなっていた。
そして、月経異常が明らかに改善されていた。

やはり、BPにより人間の体に戻りつつあると確信できた。

BP後1か月経過し、山王病院に検診に行った。
そこで、先生に心からお礼を言った。

「命を助けて下さって有難うございました。」

と・・・。

「自律神経が回復し、月経異常や呼吸の乱れが無くなり、
まだまだの身体ですが本当に感謝しております。」

と告げた。

握力も右も左も15まで回復していた。
BP前は重力で2をさしていただけの握力計を
今回は自分でしっかり握り15をさすことができた。
すごいことだと思った。

しかし、その時の状態で高知に帰るには不安も大きく、
2回目のBPを受けて高知に帰ろうと2回目の予約をした。

高橋医師が

「早く子供さんのいる高知に帰してあげたい。」

と仰ってくれ、
3か月をあけず9月25日2回目のBPの予約をした。
その時も先生の優しさを改めて感じた。

BP後1か月半経つと活字を読んでも
気持ち悪くなるといったことが全くなくなり、
嬉しくなり沢山の本を読んだ。
本は色々なことを私に教えてくれた。

そうこうしていると、
高校の親友から手紙が届いたので、
今までの思いをぶつけるような返事の手紙を書いた。
そして、字が書けるようになった自分を喜んだ。

BP後2か月過ぎるともっと良くなっていた。
近くなら一人で歩いても大丈夫という感じだ。

風も光も緑も花も空気も
なんて素晴らしいのだろうと
今まで感じた事のない喜びを感じることができた。

身体の痛みもかなり軽減され、
起きていられる時間が増えた。
横になる時間と起きていられる時間が
BP前後でちょうど逆転した。

そして、2回目の入院。
今回も主人が付き添ってくれた。

高橋医師とは一か月の検診以来だったけれど、

「ずいぶん良くなられましたね・・・。」

と仰って下さった。

私自身、良くなったことを実感していたので、

「本当に有難うございました。」

と告げた。

2回目は首と背中にBPを行った。
1回目の効果を思うと、2回目もかなり期待している。

2回目のBP後も
熱っぽく、倦怠感があらわれ、しんどかったが
1回目の傷口に塩をすりこむといった感じではなかった。
1回目の後よりは比べられないほど楽だった。

私の場合、BP後すぐに効果は出ない。
むしろ逆かもしれない。
けれど、2か月、3か月経過すると
良くなったことを必ず実感できると思っている。

自分の経験をこのように記すことで、
BP直後で苦しまれ
不安な日々を過ごしていらっしゃる方も、
その状態を乗り越えることができるのではないかと思う。

私には自分の経験を伝えることしかできない。

脳脊髄液減少症は一分一秒を争う病ではなくとも
月日をもって人が豊かに生きていく権利を奪っていく
恐ろしい病気であると私は身をもって経験した。

多くの患者さんと話す機会を持つたびに
早期発見、早期治療の必要性を
訴えていかなければとも感じている。

放置が招くこの病の怖さを
国や社会に訴えていかなければ、
脳脊髄液減少症を患ってしまった患者が
本当に可哀想でならない。

かーこの日記③

ひき続き脳脊髄液減少患者のために
署名をお願いいたします。記入が埋まらなくても
大丈夫です。よろしくお願いいたします。

脳脊髄液減少症 署名運動

今日は何か月ぶりになるかしら・・・
髪を切りに行きます。半年・・・?いや事故以来・・・?
いつから切っていないか忘れてしまいました(笑)
それどころではなかったですもの・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
7月9日診断がついて7月13日入院が決まり、
主人が急きょ介護休暇をとって
東京に来て入院に付き添ってくれることになった。

あっこも赤ちゃんがいて忙しく、
私も一人ではとても病院に行くことが
できなくなっていたので夫の支えは有難かった。

高橋医師に主人が
「僕も反省することが色々あります・・・。」
と言っているのを、
私は病室のベッドに横になりながら聞いていた。

7月13日RIシンチ検査。
ずっと呼吸が乱れ、深呼吸で平静を保っていた。

私にとりRIシンチ検査はとても痛い検査だった。
高橋医師は私の不安を取り除いてくれようと
色々な話をしてくれた。
学生時代、私も関東に住んでいたので、
住んでいた駅の話をすると、
そこに先生も子供さんと週末に行ったりするよ・・・
とか。
リラックスできるように・・・。
ホントお優しい。

RIシンチで造影剤を入れてからは、
何時間かごとに別の階の検査室へ
写真を撮りに行かなくてはならず、
そのたびに看護師さんに手を借りて連れて行ってもらった。
その時の私にとっては
その移動も含めしんどい検査だった。
けれど、本当の検査がスタートしたということを実感した。

7月14日朝、RIシンチの検査結果の説明があり、
高橋医師が
「良かったですね、確実に診断がつきましたよ。」
と仰ってくれ、
心から「有難うございます。」と述べた。
呼吸は相変わらず乱れていて、深呼吸でつないでいた。

そして、ついにBPへ。
RIシンチ検査が痛かったので覚悟していた。
これしか今の苦しみから抜け出す方法はないと
自分に言い聞かせていた。

点滴針から自己血を抜いた。
女性は普通20ml入れるらしいが
先生が25ml抜くようにと看護師さんに指示されていた。
どうも私の血液が取りにくかったようで
看護師さんは
「20mlでダメですか、取れませんけど。」
と先生に聞いていたが
はっきりと高橋医師は
「ダメだ、25ml取って。」
と仰った。
そこには、この治療で治してあげたいと願う
先生の強い意志が感じられた。

BPはRIシンチ検査ほど痛くなかった。
血液はゆっくり私の身体に入っていった。

血液が入っていくと同時に、
首の骨が整列する感じと耳がツーンとする感じ、
そして、頭がてっぺんにくっつく感じがして、
これが噂のバルーン現象か・・・と変に納得した。

そして、全身の痛みがごく短い時間だったが消えた。

BPが終わって涙がとめどなく流れ、
看護師さんの手を握らせてもらった。

この7か月の日々がソウマトウのように頭を駆け巡り、
この日を迎えられたこと、
今日、先生に命をいただいたことに
説明できない感情が溢れて涙が止まらなかった。

BP後うつ伏せ寝から仰向け寝に変え安静にしていると
主人が病室へ入ってきた。
やっと終わってほっとしたと報告した。
その日の夕方にはバルーン現象は消え
体中が再び痛くなった。

7月15日、体も頭も痛く、熱っぽくもあった。
そして、異常なほどののどの渇きを経験した。
点滴もしているのに飲んでも飲んでものどが渇く。
のどの渇きはその後も長い間続いた。

7月16日午後退院した。
症状としては、これで退院して大丈夫???
というほど酷かった。
もちろん一人で歩けるわけでもなく
フラフラと夫に支えられタクシーであっこの家に戻った。

あっこの家に帰って、
あっこの旦那さんが買ってきてくれていた本
2007年脳脊髄液減少症データ集3冊と
否定派の医師が書かれた低髄液圧症候群の本を
主人がものすごい勢いで読んでいた。

そして、私の数値を他のデータと比較し、
彼自身で判断し、

「こんなことがあっていいのか・・・許せない・・・。」

とポツリと言った。


かーこの日記②

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山王病院の受診まで通常
1から2ヶ月は待たされるとあり、
あっこはなるべく急いであげたいと、
症状を箇条書きで書くところを
こと細かく山ほどの症状を書いて
山王病院に送ってくれた。

すると、郵送して一週間もたたないうちに
病院側からあっこに電話があり、
7月9日に診察して頂けることになった。

その連絡があっこから来て、
私は何が何でも東京に行って
自分の身体を預けるぞと必死に生きた。

その時の私は7月9日まで身体を持たそうと
7Kgも痩せてしまっていたけど、
折れそうな木に必死にしがみついているという
形相だったと思う。

7月5日、鎮痛剤を山ほど飲み、
気合いを入れ空港まで夫に送ってもらった。
飛行機に乗り気圧が変わって大丈夫か心配だったので、
事情を説明しCAに手配してもらい
一番後ろの席を2席用意してもらった。

座席に座るや否や横にさせてもらうことができ
何とか東京に辿り着くことができた。

羽田にあっこが迎えに来てくれていた。
ガリガリに痩せて可哀想にと言ってくれた。
ずっとあっこの家に着くまであっこが手を握り支えてくれた。

今、当時を思い出し、涙が頬をつたう。
本当に心身とも弱くなっていた。

東京に着いて少しほっとしたが、
毎日毎日、病院に行ける日まであと何日と数えた。

7月9日診察日、予定時間より遅く名前が呼ばれた。
高橋医師自ら診察室まで招いて下さり
「遠方から大変でしたね。」と仰って下さった。

私は診察室の椅子に座ることができず、
そのまま診察室のベッドに横にさせてもらい
問診が始まった。

問診後に撮ったMRIにはっきり脳の下垂が写っていた。
脳のてっぺんは空洞ができ白くなり、
医学の知識がない私が見ても異常ありと理解できた。

やっと病名がついた・・・。私はやはり病気だったのだ・・・。

と思うと嬉しく、先生に
「ありがとうございます。」と言い涙が流れた。
横であっこも泣いていた。

高橋医師に

「苦しいのでなるべく早く入院させて下さい。」

とお願いすると、

「7月13日から一室だけ空いているよ。」

と仰ってくれた。

「9日に診て、13日に入院できるなんて、
こんなことはないですよ。風が吹いてますね。」

の言葉に高橋医師の優しさが伝わり、
私はどうなろうとこの先生には感謝し続けようと心に決めた。
高橋医師に辿りつけたこと、
やっとスタートラインに立てたことが嬉しく、
幸せな気持ちになった。

かーこの日記 ①

ひき続き脳脊髄液減少患者のために
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今日から、数日にわけて、かーこが自分の経験と、気持ちを
語りたいといっていますので、お付き合いくださいね。・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨年12月15日、出張先から会社へ帰る途中、
見通しの良い直線道路で追突事故に遭った。
加害者はノーブレーキだったのでかなりの
スピードが出ていたと思う。
その時の衝撃は凄かったが事故直後の
私の身体は痛みもなく、大丈夫ですよと
言ってそのまま帰社した。

私の症状は事故の翌日の気持ち悪さと
手のしびれから始まった。
私自身、事故は初めてだったので、
何故、事故直後でなく翌日からこのような
症状が出てくるのかわからなかった。

そして、翌々日になると後頭部から
脳出血しているのではないかと思うほどの
激痛が走りはじめ首も肩もパンパンで、
むち打ちってこんな症状なのかと恐ろしくなった。

近くの病院で湿布をもらい貼りまくった。
すると、その夜けいれんが起こり、
家の廊下で倒れてしまった。

翌朝、夫が心配し、仕事を休んで
大きな総合病院へ連れて行ってくれた。
MRI,CT,レントゲンの検査結果は異常なし、
仕事も行けますよと言われ、頭がパニックになった。
ありえないと・・・。

夫に支えられフラフラになりながら帰宅した。
それから、私は何もできなくなり
当分子供を実家に預けることにした。

年末に予定していた家族スキー旅行もキャンセルした。
私は倒れるように年末年始寝続けた。
その間、誰からも水分補給のアドバイスはなく、
もともと水分を多く取る人間でなかった為、
今思うと髄液漏れ放題で補充もなくほっとかれたと・・・(苦笑)。

頭痛は激しく、どこを枕に当てて良いか分からないほどで、
うつ伏せ寝して頭中冷やしたタオルを巻いたりして
過ごしていた。
体重は事故後一週間で3Kg減少した。

事故から一か月ほどして脳が下垂して
安定してきたのだろうか・・・?
脳出血を疑った時の痛みは軽減されてきた。
しかし、頭がフワフワして気持ち悪く、
何にも無気力で、相変わらず頭・首・肩の
痛みは続いていた。

いつかは治るだろう、
思えば事故後の脳出血と思った時よりは
痛みも楽かもしれない、きっと良くなってきているのだと
自分に言い聞かせていた。

3か月ほどたつと過呼吸になることがしばしばあり、
息ができない自分の身体が恐ろしくなってきた。
それに痛みはずっと続いていて、
痛くないという状態を忘れている自分がいた。
(これは現在も続いている・・・)

息ができないことを主治医に話すと、
社会復帰が遅れている精神的不安からだと言われた。

私も退職すれば休んで人に迷惑をかけている
という心の重りから解放されると、
事故後4か月で仕事を退職した。

事故後半年過ぎると、今までの症状に加え
軽い荷物すら持つことができなくなった。
握力検査で医師に「握力計が持てません」と
言うと非常に困った顔をされた。
握力は両方2になっていた。
2の握力もないと私は思った。
何故なら握った感覚が全くないから・・・。

痛みは体中に飛び始めた。
手の指何本とか、腰、太もも、右足全部など・・・。
それに加え頭・首・肩はガンガン,パンパンだった。
まさしく全身痛・・・。

座位を保つことができなくなり、
常に横になる状態が続いた。
その頃から、音が気持ち悪くなってきた。
早口でまくしたてられたりすると吐きそうになった。
そして、新聞が読めない自分に気付き愕然とした。
活字が理解できない。文字が追えない・・・。
仕事をしていく上で致命傷だと悲しく絶望的になった。

頭痛も激しくなり、
脳内を拳で握りしめられているように感じ、
痛みで眠れないこともしばしばとなった。

効き目がほとんどなくなってきた鎮痛剤は1日4回に増え、
その量もすごいことになっていた。
その時の私の身体は人間の機能をなしていなかったが、
自分にはなすすべがなかった。

父はむち打ちで死んだ人はいないという横で、
母は私が死んでしまうとオロオロしていた。
私の身体は落ちるだけ落ちた。
一人で寝ていると涙が流れた。
何でこんなことになったのか訳が分からず・・・。

6月中旬、あっこに電話した。
「命のリミット・・・。助けて」と。
こうして、あっこが調べてくれた。

すると、私から聞く症状と脳脊髄液減少症の症状が
あまりにも酷似していることに気付き、
山王病院への手続きをしてくれることになった。

その時の私は、PCを見ることも
気持ち悪くできなくなっており、
ましてや自分の症状を書いて
自分で郵送するということは
もはやできない状態になっていた。

両親はPCをほとんどしない。
主人はその時まだ私の病気について
理解してくれていなかったので、
劇悪化から家事を放棄して
子供とともに実家に泊まるようになった
私にかなりの不信感を抱いていた。

病名がつかないままならば
家庭崩壊は避けられなかったかもしれない。

東京に発つ日の前日、何週間かぶりに
私は夫と自宅に帰った。
その時私の症状を目の当たりにした夫は
初めて事の重大さに気付いたという様子だった。

「気をしっかり持つよう、
子供の母親であることを忘れるな」と
何度も何度も言った。

そして、

「かーこはまだ人生の半分もいきていないよ・・・。」と。

その言葉が何度も私の頭をこだました。

つれづれに思う

ひき続き脳脊髄液減少患者のために
署名をお願いいたします。記入が埋まらなくても
大丈夫です。よろしくお願いいたします。

脳脊髄液減少症 署名運動


2006年から施行された障害者自立支援法について、
現在長妻昭厚生労働大臣が同法の廃止にむけて
動いている。

障害者自立支援法とは、 障害者及び障害児が、
その有する能力及び適性に応じ、自立した
日常生活又は社会生活を営むことが
できるようにすることを目的とする法律である。

しかし、現在この法律の見直しがなされはじめている。
この法律施行後、2006年から現在にいたるまでの3年、
障害者に対する継続的な医療費の自己負担比率が、
5%から10%に倍増し、自立および支援という名の下の、
実際は障害者いじめのような内容となっていた。

苦渋の生活を強いられた障害者やその家族の怒りが、
国への集団訴訟という形になり、現在国を動かしつつある。


私の昔からのブログの友人で、大好きな
今日もきらめいてのまほさんが、
以前私に教えてくれたことばがある。

神様は、人間に優しさを教えるために障害者を
この世におくって下さっている。


最初、脳脊髄液減少症の署名活動を
始めるときの気持ち・・

それは、いてもたってもいられないような
理不尽な現実を、どうしても受け入れ難く、
そのやるせない怒りのようなエネルギーを
ぶつけるというものだった。

しかし、この活動をするにつれて、怒りのような
最初の気持ちが平穏な気持ちへと変わって
いくのを感じている。


それは、署名をしてくださっている方の中に、
難病や障害をかかえながらも愛情豊かに
優しく私たちを励ましてくださる方々と
出逢えることができたからかもしれない・・・。

こーしろーさんの言葉でいうと出愛かな・・・。

障害者自立支援法という法律が撤廃され、
障害をもった人々が安心して生活できる社会を望む。

そして、同じように脳脊髄液減少症という目に見えない
苦しい病をもつ患者たちもまた、安心して生活できる
社会が来る日を望む。

署名活動を始められた湧水会代表の鳥越ユリ子さんは、
脳脊髄液減少症を患い、現在は、
目の前にある車いすにご自身で移乗することも
できなくなっている。

彼女が先日、

「3歩だけでも歩けたら・・と今でも思うよ。
でも、それが無理ならばせめて、
体中に走るこの痛みがなかったら少しは楽なのに・・。」


と言っていた。

日野原重明先生が著書のなかで、

「痛みをもって生きること・・
これが人にとっては本当に辛いことです・・」


と述べられていたことを思い出した。


この病と認められていない、

人間の脳と脊髄を守る髄液が漏れて減少し
脳が下垂することにより様々な症状を引き起こす


という病態が、一日も早く国に病気として
認められることを願ってやまない。

13歳が平均寿命であり、世界中に50人ほどしかいない、
プロジェリアという難病の子供のことがテレビで報道されていた。
私は昔アシュレイちゃんというプロジェリアの女の子をテレビでみて、
彼女の魂の美しさを、彼女の姿とことばから感じていた。

「私は神様から、人にとって大切な優しさを
気づかせるために、この世に贈られたのよ」


と言っていた彼女を本当に美しいと感じた。

アシュレイちゃんは神様のもとに還ってしまったけれども、
今回テレビにでていたミケルくんやヘンリィちゃんからも
同じ美しさを感じた。

ミケルくんが言っていた。

「プロジェリアの患者は
患者同士で絶対けんかしたりしないよ。」
と・・・。

辛い思いを経験している患者は、
手をとりあって多くのことを私たちに教えてくれる。

私は、妹と4か月ほど一緒に生活して、
それまでの生活では知ることもなかった多くのことを考え
感じることができた。 

そして、今は私は目の前の人に優しくしていこうと心から思う。

ありがとうのおまじない

ひき続き脳脊髄液減少患者のために
署名をお願いいたします。記入が埋まらなくても
大丈夫です。よろしくお願いいたします。

脳脊髄液減少症 署名運動

かーこは「ありがとう」を5万回いうことを目標に
1か月前から唱えています。つまり・・「おまじない」です!

幸せのおまじない・・・

先日、BP後に帰ってきたかーこに、
「ちゃんと、ありがとういってる?」
とききました。

そしたら、「大丈夫!」といいながら
くすくす・・・と。

それは・・・

入院中、点滴がおちるペース
ポタン・・ポタン・・・ポタン・・ポタン・・・に合わせて

ありがとう・・ありがとう・・ありがとう・・ありがとう・・・

といっていたそうです。

とっても可愛い看護婦さんが、

「かーこさん、3時までですからね・・点滴は・・」

といって点滴をセットしてくれたようで、それが、とてーも
良いペースだったから、おまじない・・ありがとう・・
魔法の言葉 ・・ をいいかんじで唱えていました。

すると、4時になっても点滴が終わらず・・
可愛い看護婦さんは・・「あら・・まぁ・・」・・と。

急に、途中から点滴の速度を速められて~、


それが、ポタポタポタポタ・・速くて・・・速くて・・・

かーこも、ありが・ありが・あり・あり・あっとぅ、あっとぅ、あっ、あ、あ・・
次第につかれて目をとじてしまいました・・。

点滴が終わって、「かーこさん大丈夫ですか・・?」

と可愛い看護婦さんに言われたのだけど、
目が回ったのと、すこーし点滴をうけた腕が痛かった
ことを、伝えて良いものか悩んでしまったそうです。(笑)

山王病院の高橋先生はかーこの命の恩人です。
先生から、最初にあったときは打ちのめされた
ボクサーのようだったけれど、今回は
だいぶ良くなられましたね・・といってもらった
ようです。
看護婦さんもとても優しかったそうです。
きちんと、感謝の気持ちを伝えてきました。

台風の影響か、BPの影響か、今日は体中が痛いようで、
氷まくら、首にはアイスノン、足には湯たんぽです。
でも、1回目のBP後のときよりは、ましだといっています。

私は、痛い・・辛い・・これが、どんな風にかは
解りません。だから、今後の患者さんのためにも
具体的にもう少しよくなったら以前の症状と良くなった
症状を具体的に書きたいとかーこは言っています。
絶対良くなってみせるぞ!と言っています。

私は、応援します
プロフィール

Author:あっこ&かーこ
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